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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第172回
我
(
われ
)
ばかりと思い
更新
2025年12月
『わればかりと思ひ、
独覚心
(
どっかくしん
)
なること、あさましきことなり。
信あらば、仏の慈悲をうけとり申す上は、わればかりと思ふことはあるまじく候。
【
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
】
わが家のかかりつけの医者は、近所でも評判の、よくはやる医者です。
見立てがよくて薬が安い、というのがその理由です。それでたんまりもうかるせいか、往診をいやがります。
とくに夜間の往診は極度にいやがります。つけとどけが悪いというせいでもないでしょうが、かなり収入があるのだから、そうまでしなくても、というのが本音かも知れません。
しかし、そのために助かる病人が助からないという場合だって出てくるはずです。わが家でも、このことを不快に思っていました。
ところで、この医者の息子で、高校二年の男の子が、ある日曜日、友達とバイクで遊びに出た帰り道、てんとうして負傷しました。
あいにく日曜日の夜おそくであったので、二軒の医者にことわられ、三軒目にようやく起きてもらって手当を受けました。
手当を受けるまでに時間がかかってしまって、体によくなかったことはいうまでもありません。
こんなことがあってから、この医者は急患で動けぬ病人が出たときにはきてくれるようになりました。
ほんとうに人を動かすものは、金や物ではなくて愛情なのだと、このごろ思うようになりました。
科学や技術がすすめばすすむほど、慈悲の問題が強調されねばなりません。原子力の研究がすすんで、何千何万の人を殺すのも、また平和利用を考えて何千何万の人を助けるのも、 その分かれ道は慈悲の問題に帰着するからです。
仏法においては、化学や技術と愛情の問題は、智惠と慈悲ということで考えられましょうが、この二つは車の両輪のようなもので、どちらがかけても具合のわるいものです。
阿弥陀仏の修行が、この二つを軸としてなされたのであれば、当然我われの信仰にもそれが反映していなければなりません。
願作仏心
(
がんさぶっしん
)
のところに
度衆生心
(
どしゅじょうしん
)
、すなわち衆生を助けたいという心があるというのも、そこをいうのです。
先のお医者さんの話は、一つの小さな善意が、つぎつぎと小さな善意を連鎖的に引きおこしていった例ですが、しょせん凡夫の善にすぎません。
力も弱く立ち消えになることもありましょう。
それに対して、歴史を貫いて永遠に力強く働いて下されるのが阿弥陀如来のお慈悲であります。
この阿弥陀如来のお慈悲は信仰あるものを通して、つぎつぎと連鎖的に世に伝わって社会を浄化します。
それが同朋教団です。
我われ一人ひとりはその荷い手なのです。
自ら反省するとともに、教団外の人にもその善意をひろげようではありませんか。
※『ひかりの言葉』
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