☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第168回 学道がくどうの用心更新 2025年8月
          
 『学道がくどうの用心と云うは、我が心にたがへども、師の言、 聖教しょうぎょうのことばならば しばらく其れに随って、本の我見をすてて改めゆく、この心、学道の 故実こじつなり。』
 
 【正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき】 
 
 「歎異抄」に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せを こうむりて信ずるほかに別の子細なきなり」という有名な一節があります。
 よきひと 師の法然上人のお言葉通り、信じて歩むだけですという立場は、消極的なようですが、実はよほど積極的な人でなければ実践できないことなのです。
 人はそれぞれに我見といってもよいと思いますが、身体や心にしみついた我執をもっています。
 つまり、自分というものへの とらわれ があるのです。それが、素直にものを眺めたり、そのままに信じようとするはたらきをさえぎります。
 そして、自己流の解釈にとどまりますと、往々にして、そのもの自体の訴えようとしている本筋を見失うばかりか、まったく見当はずれのことで頭を悩ませるという結果になりがちであります。
 道を志すものにとりましては、この我執、我見とのたたかいが一番大きな問題のように思われるのです。
 しかし、はじめから自分には我執があるとは、だれも思いはしないでしょう。
 我執があると気がつくのは、我執などが全くないという見方、すなわち真実なものを通した見方が、自分に働きかけているからなのです。
 自分の顔に、墨がついているのを知らずに威張った顔をして町をねり歩き、自分は美しいのだと主張したとします。
 人は声をあげて笑うか、そっぽを向いてしまいます。
 どうしてだろうと考えて、鏡に写しますと、汚れた顔がそのままに写ります。
 そこで、はじめて自分の本当の顔がわかるわけです。
 そのとき、「そんなことは うそだ」とはねのけたら、汚い顔は、いつまでも変わりません。
 鏡は、ありのままにものを写します。
 人によって加減したり、おべっかをつかったりすることはありません。
 そういう本当のものを伝えることによって、本当のことがわかるわけです。
 鏡は、ありのままにものを写しますが、真実も、ありのまま、あるがままの姿を教えてくれます。
 真実は 聖教しょぎょうの言葉となり、師の言葉となって、我われに絶えず働きかけてくれます。
 そのような言葉に触れたとき、まず素直にそこに真実ありと信じることがたいせっです。
 そのような態度が、真実を求め、それと同時に自分を知ることの基本的なものであるからです。
 「信は道の元、功徳の母なり」と 「華厳経けごんきょう」にありますが、この信がなければ、決して真実にあうことはできないでしょう。    



※『ひかりの言葉』 
本願寺出版社 
お経の本やCDや仏書の販売 西本願寺の本
本願寺出版社


本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ



今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


トップページへ   法話に戻る   書庫をみる