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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第165回
煩悩
(
ぼんのう
)
を断ぜず
言葉
(
ことば
)
得る
更新
2025年5月
『
無碍光仏
(
むげこうぶつ
)
の
不可思議
(
ふかしぎ
)
の
本願
(
ほんがん
)
、
広大智慧
(
こうだいちえ
)
の
名号
(
みょうごう
)
を
信楽
(
しんぎょう
)
すれば、
煩悩
(
ぼんのう
)
を
具足
(
ぐそく
)
しながら
無上大涅槃
(
むじょうだいねはん
)
にいたるなり』
【
唯信鈔文意
(
ゆいしんしょうもんい
)
】
自分の幸せのためなら他人を傷つけても何の痛みも感じない、わが子のためならどんな苦しいことでもするが、他人の子のためなら何もしたくない、というような自我中心の欲望を むき出して、私たちは生きていっています。
このような私が、み教えに
遇
(
あ
)
わせていただき、 み
法
(
のり
)
を聞かせていただくことによって、そのような欲望むき出しの身が「当たり前」ではなくて「お恥ずかしい」ことでありましたと 知らせていただくのでありましょう。
身を
煩
(
わずら
)
わし、心を悩ます、と説かれる煩悩具足の身にこそ
一時
(
ひととき
)
も絶えることなくはたらき通しであるのが無碍光と言われる、み仏なのであります。
無碍
(
むげ
)
とは、どのような煩い悩みのものをも、さまたげられないということであります。
どのような煩悩をも、つきぬけてはたらくことを、仏法では「不思議」というのであります。
不思議とは手品やマジックの話ではありません。
まして奇跡の代名詞ではないのであります。
み教えでは、「不二」「無碍」「円融」のみ仏のはたらきをいうのであります。
「不二」とは、み仏からみればすべての生きとし生けるものが、皆わがひとり子であり、子供が痛む時、自らも痛み、子供が目覚めた時、にっこりほほえむことができるのが 自らのいのち子であるという一体としてのはたらきであります。
円融
(
えんゆう
)
とは、み仏のはたらきはどのようなものをも仏に成らせるのに欠けているところのない
円
(
まど
)
やかな、そしてどのようなものをも融すことのできることをいうのです。
そして
無碍
(
むげ
)
とは、どのようなかたくなな煩悩をもさまたげとせず、はたらき通しの仏の力をいうのであります。
この
無碍光
(
むげこう
)
の不可思議の誓願、誓願の通りに成就された名号のいわれを聞きえてこそ、身の煩い心の悩みから、 もうとう離れられないものが、この上もないさとりを得させていただくただ一つの道であると説き示してくだされているのであります。
まことに、煩悩具足の身にかけられたはたらきこそ、無碍光の不可思議の誓願、つまり広大智慧の名号であり、それによってこそ「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」道が開き示されていたのであります。
いまさらながら「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとき、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
と
述懐
(
じゅっかい
)
されている『歎異抄』のお言葉が、この身に迫ってくることであります。
※『真宗法語のこころ』中西智海 師
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