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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第167回
真の世界へ
転
(
てん
)
ずる
更新
2025年7月
『
摂取
(
せっしゅ
)
のひかりと
申
(
もう
)
すは、
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
御
(
おん
)
こころにをさめとりたまふゆえなり』
【
唯信鈔文意
(
ゆいしんしょうもんい
)
】
この世において人間が人間として生きようとする時、生きる依りどころが必要であることはだれもが拒むことのないところでしょう。
一般には信念をもって生きよとか、確信をもって進め、ということになるのでしょう。
そして、そのために本を読んだり、講演を聞いたり、学習したりしているといえましょう。
しかし、私たちが自分で確信をもったとか、自らの信念にもとづいて、という時、その「確信」も「信念」はそれほど確かなものでしょうか。
ややもすると、自分の欲望を果たすために、他人の言葉に耳を傾けることもなく、それどころか他人をおしのけて、わが道をゆくことになってはいないでしょうか。
まわりの人を泣き寝入りさせておいて、独善的にふるまうことと錯覚してはいないでしょうか。
そのような「欲望」を根とした「独善」的な確信や信念は、ほんとうの生きる依りどころでもなければ、真の信念でもないということを、この法語は説き明かしてくだされています。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の一貫した筋道は、人間の欲望が根となっている独善的なものは、一見、どんなに強そうに見えても、 どんなに堅そうに見えても、やがて、こわれ、空しくなるものということです。
それに対して、真如の理法にかない、縁起の法にそむくことのない「如来のまこと」がめぐみ施された「たまわりたる信心」であればこそ「金剛の真心」である、ということなのです。
真実は滅びない、まことはこわれることがないということであります。
そして、真実・まことは、つねにまことでないものを発見して、まことの世界に転じかえるはたらきをもつのです。
それが
真如
(
しんにょ
)
から来たれるもの、如来であります。
その
如来
(
にょらい
)
のこころのはたらきが 「
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の御こころ」でありましょう。
「
無碍
(
むげ
)
と
申
(
もう
)
すは、
煩悩悪業
(
ぼんのうあくごう
)
にさへられず、やぶられぬをいふなり(一念多念証文)」 と
述
(
の
)
べられているように、自我中心の欲望を根とした独善的な私の根源を照らし出してくだされ、しかも、もうとう捨てない 「
摂取
(
せっしゅ
)
の光明」にめざめることこそ生きることの最も確かな依りどころであるとお示しくだされています。
「
真実信心
(
しんじつしんじん
)
の
行人
(
ぎょうにん
)
は
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
のゆえに
正定聚
(
しょうじょうじゅ
)
の
位
(
くらい
)
に
住
(
じゅう
)
す」と述べられているように、如来のまことの大慈悲におさめとられているいのちの深さと重さにうなずき、念仏とともに尽くす人生は、 最も確かな道であり、それがそのまま浄土への道であることを聞思したいものです。
※『真宗法語のこころ』 中西智海 師
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