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法 話
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【 私の如是我聞 】
第164回
典座教訓
(
てんぞきょうくん
)
の
言葉
(
ことば
)
更新
2025年4月
『
座云
(
ぞいわ
)
く、他は
是
(
こ
)
れ
吾
(
わ
)
れにあらず。
座云
(
ぞいわ
)
く更にいずれの
時
(
とき
)
をか待たん』
【
典座教訓
(
てんぞきょうくん
)
】
これは道元禅師の 「
典座教訓
(
てんぞきょうくん
)
」の中にある言葉です。
典座
(
てんぞ
)
というのは、寺院で修行している僧侶たちの食事をつかさどる職名です。
食事係というと低い役目のように思われますが、じつは昔から道心の深い僧や菩提心をおこしたすぐれた人たちがつとめてきた職なのです。
道元
(
どうげん
)
は、この職のいかに大事であるかを身をもって体験し、こまごまと その心得を説いています。
しかるに日本では、仏法の名を聞くことはすでに久しいのに、食べものを作法どおりに作るなどということは、だれも教えていないと、
道元
(
どうげん
)
は
嘆
(
なげ
)
いています。
さて、道元が体験したというのは、「典座教訓」のなかに、次のように記されています。
「わたしが天童山にいたときに、用という人が典座教訓をつとめていた。
わたしがちょうど昼の食事のあと、東の廊下を通ってお堂にゆく途中、用典座が仏殿の前でしいたけを干していた。
手には竹杖をたずさえ、頭には一片の笠もかぶっていない。
しかも天日は熟し、しきがわらは焼けつくようだ。
汗
(
あせ
)
がたらたら流れるけれども、精を出してシイタケを干している。
いかにも苦しそうだ。背骨は弓のようにまがり、大きな
眉
(
まゆ
)
は鶴のように白い。
わたしはそばへ行って
年齢
(
ねんれい
)
をたずねた。
典座
(
てんぞ
)
が言った。『六十八歳』
わたしが言った。『どうして下役や人足をお使いにならないのですか』
典座は答えた。『人にやってもらっては自分がしたことにならない』
わたしは言った。『ご
老人
(
ろうじん
)
あまりにまじめでいらっしゃいます。日ざしもこんなに熱いのに、どうしてこんな苦労をなさるのですか』
典座
(
てんぞ
)
は答えた。
『熱いといって、今でなくて、いったいいつシイタケを干す時があるのか』と。
わたしは
口
(
くち
)
をとじるよりほかはなかった。」
まったく私たちもこれには口をとじるよりほかはありません。
いま、この自分、これを抜きにしてどこに真実があるのでしょう。
それを私たちはいつも「明日になったら」と考えて、向こうへ押しやっているのです。
また、だれか他の人がやってくれるかのように考えて、自分のつとめをおろそかにしています。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は
「
弥陀五劫思惟
(
みだごこうしゆい
)
の
願
(
がん
)
をよくよく
案
(
あん
)
ずれば、ひとえに
親鸞一人
(
しんらんいちにん
)
がためなりけり」と申されました。
また、「あいがたくして
今
(
いま
)
あうことをえたり」と申されました。
ここには深く相通ずるものがあります。
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