☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第159回 感動と慶喜の味わい更新 2024年11月
          
 『てんずといふは、つみをけしうしなはずして ぜんになすなり、よろづのみづ 大海たいかいにいればすなはちうしほとなるがごとし
 
 【唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい】 

 私たちのまわりには人間の欲望をそのまま認めて、いや増長するために神や仏に祈るという宗教が多く目につきます。
 そうかと思うと、人間の欲望・煩悩を断滅・悔い改めてさとりをうる、すくわれてゆくと考える宗教もあります。
 はじめの方は快楽主義的宗教ということができましょうし、あとの方は禁欲主義的宗教というべきでありましょう。
 この両者は一見、真反対のようですが、実はどちらも、人間に対する楽観的思考に根ざしているという点で共通しているというべきでしょう。
 すなわち、人間の欲望の延長の上に神仏をみるという考え方はもとより、人間の欲望や煩悩を断滅してしまえると考える方も、人間の根をあまりにも楽観的に見ているといわねばなりません。
 親鸞聖人は「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず(一念多念証文)」と告げられています。
 言いかえれば、欲望・煩悩がなくなったり滅することがあるならば、それは生きていないということ、つまり死を意味することになるというのであります。
 生きている限り、この世に生を得ている限り、欲望・煩悩は消滅しないといわれているのです。
 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」【「歎異抄」】であります。
 それでは、このような人間のすくいの道は閉ざされたままであるのかとたずねてみますと、 欲望・煩悩の「断滅」の道ではなくて「転成」の道があることに深い感動と慶喜を心身にしかと実感されたのが親鸞聖人でありました。
 一般には、仏教とは煩悩を断じてさとりを開くこととうけとめられていますが、親鸞聖人の仏教は「煩悩を断ぜずして 涅槃ねはんを得る」道であります。
 これが「転ず」ということであるといわれているのです。
 そのような事実が実現するのは、まったく阿弥陀如来の本願海のはたらきであるというのが、感動と慶喜の深い味わいであると述懐されているのです。
 北陸の鉛色の底知れない荒海のこどき深い煩悩も「海」ならば、これを転じて菩提と成さしめるものも阿弥陀如来の本願の「海」でありました。
 「よろずの水、大海にいればすなはち うしおと成るがごとし」と述べられているこころであります。
 人間のほんとうのすがたをごまかさずそれをもうとう捨てず、さとりに至らしめるはたらきにめざめてゆく道を顕わしてくだされたのが、浄土真宗のみ教えであることを喜ばずにはおれません。      



※『真宗法語のこころ』中西智海 師 
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