☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第173回 いのちの共同体きょうどうたいめざし更新 2026年1月
          
 『弥陀みだ本願ほんがんには、 老少・善悪ろうしょう・ぜんあくのひとをえらばれず、
 ただ 信心しんじんようとすとしるべし』
 
 【歎異抄たんにしょう】 
 
 阿弥陀仏の本願にあっては、老人であるか、若者であるか、または善人であるか、悪人であるかというような、人による差別をなされない--- という法語であります。
 この法語を口ずさむと、いつも『大無量寿経』の「如来は何ものにもさまたげられない大いなる慈悲をもって、あらゆる世界をあわれみたもう。
 この世に出た本意は「仏に成る教え」を明らかにし、 「群萌ぐんもうすくい」
 めぐむに真実の利をもってせんがためである」と言う、いわゆる「出世本懐」【しゅっせほんがい】の文を思い起こさずにはおれません。
 「群萌」【ぐんもう】とは「よろずの衆生」であると親鸞聖人は述べておられます。
 「よろずの衆生」とは「老少善悪」を問わないということであります。
 聖人のいわれる「悪人」とは「煩い悩みから離れられないこの私」のことです。
 「悪人とは人間そのもののこと」と言った人がありますが、まことにその通りで、煩い悩みからもうとう離れることのできない「いのち」の仕組みを抱えているいまの私のことなのです。
 この「老少善悪の人をえらばない」といわれるのは「罪悪深重、煩悩熾盛【ざいあくじんじゅう ぼんのうしじょう】の衆生をたすけんがための願にてまします」ということであるからです。
 すなわち、如来の大悲は、悩めるこの私をこそすくうためにはたらき通しのものであると告げられているのです。
 生きとし生けるものを差別することのない平等の本願であればこそ、この私がすくわれるのであり、この私がすくわれてゆくことは、すべての衆生がすくわれることのあかしであると いわねばなりません。
 この平等の本願にうなずいて生きる念仏の行者のありようは、そのまま、一切の生きとし生けるものを差別しない「めざめのいのちの共同体」に生きることであります。
 私たちは、如来の本願のこころを聞きひらかせていただくそのままに、私のかたくなな自我中心的生きざまが見すかされてくるのであります。
 そのようなしぶとい私であることを知らせてくださるのも、如来さまでありました。
 如来の平等の本願にうなずき、しぶとい凡夫の実相に痛みを感じつつ、めざめのいのちの共同体をめざして生きるところに、念仏者の歩みがあるといわねばなりません。
 そこに、「信心」が肝要であるとのおさえがあるのであります。
 聖人は、大信心の世界をたたえて「利他深広の信楽〈教行信証〉」と述べられています。



※『真宗法語のこころ』 中西智海師
本願寺出版社 
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