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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第170回
我
(
わ
)
悪き事を申されよ
更新
2025年10月
『常に我が前にては
言
(
い
)
はずして、
後事
(
うしろごと
)
いふとて腹立する事なり。
我
(
われ
)
はさやうには
存
(
ぞん
)
せず候、我が前にては申しにくくば、陰なりてなりとも我が悪き事を申されよ、聞きて
心中
(
しんちゅう
)
を直すべき。』
【
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいききがき
)
】
人と人との関係には、昔から非常に苦労してきたところですが、ことに最近のように世の中の移り変わりがはげしくて、若い世代と年をとった世代ではものの考え方が根本的にちがい、また同じ世代の間でも 考え方が大変違うという世の中では、一軒の家の中にあっては親と子、嫁と姑、会社にあっては上役と下役、社会にあっては資本家と労働者といった具合に、お互い立場と考え方の違う者が一緒に生活していますが、 それをうまくまとめて明るい家庭や職場を築きあげてゆくことは大変に骨のおれることです。
その場合に考え方の違う者どうしが、はじめから相手の意見や気持ち謙虚に聞くことなしに、自分の我を押し通そうとすれば、お互いが傷つくばかりです。
お互いが凡夫であるという自覚に立って話し合うという事が大切です。
今日では会社などでも下の者の意見が上の者にも聞かれるように、制度的にいろいろと考えられておりますが、要はそれを聞く者の心構え一つでそれが生きもし、また死にもするものです。
「我が前にて申しにくくば、陰にてなりとも我が悪き事を申されよ、聞きて心中を直すべき」という謙虚さが必要なのでしょう。
ご幼少のころ生活の問題において大変にご苦労された蓮如上人が、晩年には時代を代表する人になられたという背後に、このような仕方で人を心服せしめられたという上人の度量の大きさがあったのですが、 そのことを思うとともに、そうせしめた信仰の力というものを思うのです。
俗人をはるかに越えたもう阿弥陀如来が、底辺にうごめく私の上に大悲をかけたまい、自分もその救いのみ手の中にあるという喜びが、人と人との間がらに、このような生き方となって 現われて来たのでしょう。
ともあれ、現代は組織の中で動かねばならぬ時代です。
組織を構成する人びとの心をしっかりと把握していなければ仕事は成就しません。
ここではそういう実利的な側面だけでなく、そういう態度のよって来たる根底を考えて見たいと思うのです。
如来の慈悲を信ずればこそ、小さい自己にとらわれず、すべての人を受け入れてゆけるように、心が開かれてゆくものであると思います。
※『ひかりの言葉』
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