☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第175回 ほとけとともにあり更新 2026年3月
          
 『 念仏ねんぶつは、まことに、 浄土じょうどうまるるたねにてはんべるらん、また  地獄じごくに  おつべき ごうにてやはんべるらん。
 そうじてもって 存知ぞんちせざるなり』
 
 【歎異抄たんにしょう】 
 
 今日、一般に「念仏」に対する誤解があることを耳にします。
 その一つに「念仏」は、極楽行きのキップのように考えられ、死ぬ時のもち物のような感覚で受けとめられているということです。
 これでは、若い人たちが近寄るはずはありませんし、死んだ後で極楽へ行くキップの話は、死ぬ少し前に聞こうということになりましょう。
 この「歎異抄」の法語は「念仏する者は地獄に ちる」といった日蓮上人の影響が、背景にあると言われます。 (私は、日蓮上人より旧仏教の念仏弾圧の影響を重くみます。)
 しかし、そうした歴史的背景を抜きにしても、この法語は「念仏」の本質を真っ正面から表明されたものと言わねばなりません。
 「親鸞におきてはただ念仏して」といわれた「念仏」は、阿弥陀如来に対する絶対の信順の告白ですから、行き先の しを計算しての、功利的な念仏ではありません。
 極楽に行けるのなら念仏するけれど、地獄に堕ちるのなら、やめておこう、といったものではもうとうありません。
 それは、法然上人に「すかされまひらせて」念仏して、地獄に堕ちても、後悔のない世界でありました。
 後悔とは、二つ以上の道がある時に、道を選びそこねた時に起こる心であります。
 「往生の道」は、まったく念仏の一道しかなく、その他の ぎょうではとうていいけないことを知らしめられる中で、この念仏は、現在ただいまの親鸞聖人ご自身の歩まれる道であったのです。
 行き先の苦楽を予想して申す念仏ではないのであります。
 ですから、念仏は浄土に生まれる種であるやら、地獄に堕ちる種であるやら「総じてもつて存知せざるなり」と、断言されるのであります。
 「往生の道」は、ただ念仏の一道であるという「信知」の世界では、その道は、ただいまの私自身の道であります。
 念仏は、死後、どこかよいところに行くための、 となえものではないのです。
 阿弥陀如来が私の身についてくだされたのが念仏である、と告げられたのであります。
 ただいまみ仏とともにあり-----阿弥陀如来の大智大悲の摂取不捨の只中にあり、という現在のうなずきが、ここから知られます。
 外からあれこれと言われても、まったく問題とならない「信知」の世界があると断言されたのです。
 今日、さまざまな功利的な宗教や呪術的宗教が横行していますが、この法語から、念仏の本質をじっくりと味わってみたいものであります。



※『真宗法語のこころ』 中西智海師
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