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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第164回
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋
更新
2025年4月
(35) 罪業と救い
順誓、まうしあげられ候。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)のくらいにさだまると御文にあそばされたり。
しかるに、つみはいのちのあるあひだ、つみもあるべしとおほせさふらふ。
御文と別にきこえまうしさふらふやとまうしあげ候とき、一念のところにて罪みなきえてとあるは、一念の信力にて往生さだまるときは、罪はさはりともならず、去れば無き分なり。
命の娑婆にあらんかぎりは、罪はつきざるなり。
順誓は、はや悟てつみはなきかや。
聖教には一念のところにて、つみきえてとあるなりと、仰せられ候。
罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。
罪きえて御たすけあらんとも、つみ消ずして恩たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり。
我として、はからふべからず。
我として、はからふべからず。
ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候なり。
【意訳】
順誓が蓮如上人に申し上げた 「一念の信心を
発
(
おこ
)
したところに、罪がみな消滅して、正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、
退転
(
あとずさり
)
しない位(くらい)に定まると上人の御文にお示しなされてある。
しかるに、また、人間の生きているあいだは罪はなくならないと、上人は仰せられるが、なんだか、御文の御教化とは違っているようにきこえますが、如何にいただいたら よろしゅうございましょうか」と申し上げたとき、上人の仰せに 「一念の信心を発したところに、罪がみな消えるというのは、一念の信心の力によって往生が定まり、罪はあっても往生の
障碍
(
さわり
)
とはならない。
故に、罪はあっても、ないとおなじ
分際
(
ぶんざい
)
である。
こうした見方から聖教には一念のところに罪が消えるとのべられたのである。
しかしながら、信心をいただいても
娑婆
(
しゃば
)
に生きているかぎりは罪は尽きないのである。
順誓は、娑婆に生きているうちから、すでに悟をひらいて罪はなくなってしまったかどうか。
おもうに、罪の
有無
(
あるなし
)
の
詮議
(
せんぎ
)
をするよりは、信心をいただいたか、いただいていないかの
吟味
(
ぎんみ
)
に
念
(
ねん
)
を入れるがよい。
およそ、罪が消えて恩たすけにあずかるのであろうとも、罪が消えないで恩たすけなさるのであろうとも、それは弥陀の御はからいである。
凡夫の私どもがはからうべきことではない。
ただ、信心をいただくのが
肝要
(
かんよう
)
である。」と、繰り返し繰り返して仰せになったことである。
【解説】
法徳に約すれば
罪業
(
つみ
)
の体用ともに滅するのである。
信の一念に三世の
業障
(
さわり
)
は一時に消滅するのである。
これによって信心は迷を転じて悟をひらく因となるのである。
けれども、機相に約すれば、
有漏
(
うろ
)
の
穢体
(
えたい
)
のなくならないあいだは
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
の身が救われてゆくことである。
この
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
の身がこのまま救われてゆくことである。
この罪と救いの問題をわかりやすく順誓にさとされたのである。
『
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋』
梅原真隆
(
うめはらしんりゅう
)
本願寺出版社
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