《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第170回  蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋 更新 2025年10月

 (41) 機のあつかい
 愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかずく事をたのしまずとまうす沙汰に、不審のあつかひどもにて、往生せんずるか、 すまじきなんどと互いにもうしあひけるを、ものごしにきこしめされて、愛欲も名利もみな煩悩なり。
 されば、機のあつかひをするは雑修なりと、おほせ候なり。ただ信ずるほかは別のことなしと、仰られ候。
 
 【意訳】
  「愛欲あいよくの広い海にしずみ、 名利みょうりのけわしい山にふみ迷うて、まちがいなく仏になる身分にしていただいたことをよろこびもしない、まことの さとりに近づきつつあることをたのしくもおもわない」と述懐なされた御開山聖人のお言葉について、了解しかねるところもあって案じ わずらい、こうして悪欲名利にからめられても「往生できるであろうか」、また定聚【じょうじゅ】のかずにいることを よろこばず、真証の証に近づくことをたのしまないものは、「往生できないのではないか」と、身辺のものが互いに語り合っているのを、蓮如上人は 襖越しふすまごしにおききなされて「愛欲も名利もみな煩悩である、こうした煩悩にまつわられた 機根うまれつきをかれこれと心配して往生できるか、できないかと沙汰しているのは 雑修ざっしゅというものである」とさとされ、「ただ信ずるだけである。別に心配することはからいはいらない」と仰せられた。
 
 
 【解説】
 
 親鸞聖人の 慚愧ざんぎを踏み台にして 無慚無愧むざんむぎ邪見じゃけんにおちいるものの多いうちに、自身にひきうけて案じ わずらう人々は真剣である。
 しかし、 慚愧ざんぎは大法の 返照へんしょうであるのに、もしその大法を見失うて、いたずらに機根の 処理しょり憂身うきみをやつすことは雑修であると、さとされた蓮如上人は親切である。



 『蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋』 
    梅原真隆うめはらしんりゅう
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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