《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第159回  蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋 更新 2024年11月

 (30) 諸仏と弥陀の関係
 のたまはく。諸仏三業荘厳して、畢竟平等なることは、衆生虚誑の身口意を、治せんがためとのべたまふといふは、諸仏の弥陀に帰して、衆生をたすけらるることよと、仰せられ候。
 
 【意訳】
 蓮如上人が仰せられた。『高僧和讃』に 「諸仏三業荘厳しょぶつさんごうしょうごんして、 畢竟平等ひっきょうびょうどうなることは、衆生 虚誑こおうの身口意を、 せんがためとのべたまふ」とある。
 この和讃に諸仏とあるのは、弥陀のことをいうのである。 諸仏は弥陀に 帰納きのうして、衆生をたすけられることを示されたのである」と仰せられた。
 【解説】 『浄土論じょうどろん』には弥陀の 荘厳しょうごん八種のうち第二・第三・第四に、「弥陀の身口意の三業の功徳を論じてある。
  『往生論註おうじょうろんちゅう』にこれを解釈するとき、初めは諸仏菩薩という 主辞しゅじをもちい、あとは弥陀という主辞をもちいてある。
 『高僧和讃』は、この『往生論註』によって諸仏を主辞としてある。
 そこで、文面だけをみると諸仏が衆生の 虚誑こおうの三業を 対治たいじするために 畢竟ひっきょうして平等なる三業を 荘厳しょうごんされたことをのべ、諸仏の救いをあらわすかのように味わわれないでもないが、実はそうでない。
 諸仏とあるのは弥陀をあらわすのである。
 一切の諸仏を 帰納きのうした弥陀を表現し弥陀は諸仏の 統格とうかくであることを表示するのである。
 それであるから、ここにおひきなされた『高僧和讃』の一首に諸仏を主辞としてあるが、それは弥陀の救いを表現したものである、一切の諸仏が弥陀に 帰納きのうして衆生を救うことをあらわされたものであると、正しい  解説かいせつをなして、和讃を正しく味わわれた仰せである。



 『蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき新釋』 
    梅原真隆うめはらしんりゅう
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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