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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第91回
いつでも、どこでも
更新
2019年3月
『
摂取
(
せっしゅ
)
の
心光
(
しんこう
)
、つねに
照護
(
しょうご
)
したまふ』
【「教行信証」】
一見
(
いっけん
)
賑
(
にぎ
)
やかに見える
今日
(
こんにち
)
の世の底に言い知れぬ
《不安》がひそんでいるようです。
さわがしい大きな声は聞こえても 心のぬくもる言葉が見当たらないといった状態です。
生まれた時からカラーテレビがあり、チョコレートのおやつが眼の前にあるといっためぐまれた
日
(
ひ
)
を送っていた少年が突然、
自殺
(
じさつ
)
してゆく今日の世相であります。
少年ばかりではありません。人生でいちばん自信をもっていなければならない四十代後半から五十代前半の壮年の自殺-それは会社の人間関係の複雑さと、 家庭といえども、そのありったけをぶつけることのできないむなしさからくるのでしょうか。
老人は
孤独地獄
(
こどくじごく
)
といわれるような、一人の淋しさから、 これまた自らの生命を先取りするといったありさまです。
このような、人間の思いとうらはらな、そして人間であることの不安な状況を
釈尊
(
しゃくそん
)
は《苦》と説かれたのです。
すなわち《苦》とは単なる心理的レベルのことではなく人生の根にかかわる不安と苦悩の事実であります。
このような人生のほんとうのすがた《実相》を思う時、その
矛盾
(
むじゅん
)
と不安に おそれ と おののき をもちながらどうしようもないと叫んでいるのが、 今日の状況ではないでしょうか。
このような時、いまの法語を何回も口ずませていただき、日常の生活のただ中にありながら、 落ち着きと、やすらぎをとりもどすことが大切なように思われてなりません。
この
法語
(
ほうご
)
を口ずさむと、自から思い出されるのは、
十方微塵世界
(
じっぽうみじんせかい
)
の
念仏
(
ねんぶつ
)
の
衆生
(
しゅじょう
)
をみそなはし
摂取
(
せっしゅ
)
して すてざれば
阿弥陀
(
あみだ
)
となづけたてまつる
【「
浄土和讃
(
じょうどわさん
)
」】
の言葉であります。
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
はあらゆる世界の
念仏
(
ねんぶつ
)
の
衆生
(
しゅじょう
)
を
照
(
て
)
らし
見
(
み
)
られて一人残らず、
摂
(
おさ
)
め取って、自分と同じ仏にまで仕上げると
誓
(
ちか
)
われた、そのゆえに
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
と申しあげるのである、というこころであります。
不安と おののき に苦しみ悩むものにこそ必ず
摂
(
おさ
)
め取って捨てないとかけられる願いがあったのであります。
如来
(
によらい
)
は常に
照
(
て
)
らし
護
(
まも
)
たもうのであります。
つまり いつでも、どこでも、だれをも照らし護りたもうのであります。
『われすでにまもられてあり』このうなずきひとつが確かなら、不安と おののき に沈むいのちではなく、 仏さまとともならば、のりこえて生きる人間にさせていただくのでありました。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社
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