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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第90回
自由な自己
更新
2019年2月
『おとこのおみなにむかいて
いささかなりとも
おもいの
小枝
(
こえだ
)
をたつことなくば
そのあいだ
彼のおもいは
なほ
繋縛
(
けばく
)
せらる
乳をしたうこうしの
ははより
離
(
はな
)
れがたくがごとく』
【「法句経」】
快楽
(
かいらく
)
に
仕
(
つか
)
える
身
(
み
)
となるか、
自由
(
じゆう
)
な人格への道を選ぶか、人はこの二つの相反するもののいずれかの
選択
(
せんたく
)
に迫られます。
欲望
(
よくぼう
)
は
快楽
(
かいらく
)
に結びつき、意志は自由につらなるのです。
快楽は人によっては甘美なものでしょうが、自由への道は厳しい道として、人の前に開けております。
甘美
(
かんび
)
なものは、人にとってつねに
誘惑
(
ゆうわく
)
としてうつり、厳しさは、人に
当惑
(
とうわく
)
を感じさせます。
こうして、人は、
快楽
(
かいらく
)
への道を選ぶのが普通です。
快楽
(
かいらく
)
は
欲望
(
よくぼう
)
を
充
(
み
)
たすことから
始
(
はじ
)
まり、そして
欲望
(
よくぼう
)
は
欲望
(
よくぼう
)
を
充
(
み
)
たしてくれるものをどこにでも
求
(
もと
)
めていきます。
人は、こうして、自分の
欲望
(
よくぼう
)
に
満足
(
まんぞく
)
を
与
(
あた
)
えるものに、それが何であっても、
支配
(
しはい
)
され、そのとりことなってしまいます。
愛欲
(
あいよく
)
のとりことなり、
黄金
(
おうごん
)
のとりことなり、
名声
(
めいせい
)
と
虚栄
(
きよえい
)
のとりことなりおわるのであります。
とりことなることが、どのように
甘美
(
かんび
)
なものであろうとも、
自由人
(
じゆうじん
)
の
輝
(
かがや
)
かしさはどこにもなく、みじめさだけが
不快
(
ふかい
)
な
後味
(
あとあじ
)
として
残
(
のこ
)
るょう。
人間
(
にんげん
)
は
自由
(
じゆう
)
をえてのみ、
人間
(
にんげん
)
といえます。
欲望
(
よくぼう
)
のとりことなり
果
(
は
)
てて、
欲望
(
よくぼう
)
に
支配
(
しはい
)
されるために、
人間
(
にんげん
)
は生まれてきたのではないのです。
欲望
(
よくぼう
)
を
抑制
(
よくせい
)
しえてこそ、
人間
(
にんげん
)
は、
自
(
みずか
)
らに「人間なるもの」を築き上げることができるのです。
自我
(
じが
)
の
欲望
(
よくぼう
)
を
抑制
(
よくせい
)
しうるもののみに、
自由
(
じゆう
)
な自己が与えられます。
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