☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

               
第89回 真実の利を恵むため 更新 2019年1月
          
群萌ぐんもうすくめぐむに 真実しんじつをもってせんと おぼすなり』 
             【「教行信証」】
 人は、はじめからこのに生まれる意味も目的も知り尽くして生まれたのではありません。
 ましてむらがり えて大地にはえる雑草のような 凡夫ぼんぶの身においてはなおさらのことでありましょう。
 思えば、そのようなわれわれのためにこそ、仏が 出世本懐しゅっせほんがいを聞かせていただくことであります。
 今、仏の 出世本懐しゅっせほんがい、つまり仏がこの世に生まれたもう 本心ほんしんを聞かせていただくことによって、もったいなくも、私がこの世に人間として生まれさせていただいた 意味と目的が言いあてられるのです。
 ところで、 「大無量寿経だいむりょうじゅきょう」の 「出世本懐しゅっせほんがい」の文を 「教行信証」に引用されて、
 
釈迦しゃか世に 出興しゅっこうして、 道教どうきょう光闡こうせんして、 群萌ぐんもうすくめぐむに 真実しんじつをもつてせんと おぼすなり」と述べられています。
 み仏がこの世に出られたのは、 仏道ぶつどうの教え、すなわち仏に成る教えをひろくひろめて 群萌ぐんもうといわれるわれらをすくい 真実しんじつを恵むためであると言うのであります。
群萌ぐんもうすく」といわれる「拯」という字は沈みゆくものを必ずすくうという深い意味があると言われています。
 「正信偈しょうしんげ」の中の 「拯済無辺極濁悪じょうさいむへんごくじよくあく」の「拯」というお言葉です。
 また 群萌ぐんもうとは「よろずの 衆生しゅじょうなり」と 親鸞聖人しんらんしょうにんは説き示されています。
 よろずの 衆生しゅじょうとは 「老少善悪ろうしょうぜんあくのひとをえらばず」ということになり、あらゆる 衆生しゅじょう、めざめなき 有情うじょうを必ずすくうというこころであります。
 さて、あらゆる 衆生しゅじょうを必ずすくうためには、み仏はどうされねばならなかったのでしょうか。
 それは 「真実しんじつ」を恵み ほどこすしかなかったのであります。
 真実しんじつといわれる 「」には 「めざめ」と「目的」という意味があると言われます。
 めざめなき、いのちの 行方ゆくえもわからない私に ほんとうのいのちの意味と目的にめざめさせ、すくうことこそ、み仏がこの世に  れたもうた本心であります。
 人間はなんのためにいま、ここに生きているのかがわからなくなった時、自ら いのちを自らが先どりしかねない生きものなのです。
 そのような私に 真実しんじつを恵み ほどこすことこそ仏の 出世本懐しゅっせほんがいであると げられることの重大さを味わうべきであります。
 群萌ぐんもうといわれ私にめざめと目的をもたらすものこそ 「本願・名号ほんがん・みょうごう」のいわれなのであります。 
                      


※『真宗法語のこころ』 中西 智海
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