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法 話
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【 私の如是我聞 】
第88回
樹根そこなれずして固ければ
更新
平成30年12月
『
樹根
(
じゅこん
)
そこなわれずして固ければ、
樹
(
き
)
伐らるるとも再び生ずるが如く、
愛欲
(
あいよく
)
の執着断たざれば、この苦は再び生起す。』
【「法句経」】
愛
(
あい
)
ということを考えてみますと、近ごろこれほどよく人びとに語られる言葉はないでしょう。
若
(
わか
)
い時、盛んな時、老いたる時、いつも私たちは愛を求めています。
しかし、これほどまた
悲劇
(
ひげき
)
をもたらすものも他にないでしょう。
昔から、愛することは苦しみの始めであるといわれますが、その通りだと思います。
人間の愛というものは、それがどんなに美しい愛でも、心のどこかに
条件
(
じょうけん
)
をともなっているものです。
私はそんなことはない、ほんとうに、条件なしに愛している、といわれる人があるかも知れません。
しかし、そんな人でも、しばしば口ではそういいながら、
心
(
こころ
)
の中では、「あれだけ愛してやったのに」と思うことがあるのではないでしょうか。
もともと、人間の欲望には限りがないといわれますが、
愛欲
(
あいよく
)
にも限りがありません。
ですから、その表れ方は種々さまざまです。
善
(
よ
)
いとき、悪いとき、
幸福
(
こうふく
)
なとき、不幸なとき、喜びのとき、悲しみのとき、いろいろ縁にふれて種々の姿となって 表れるものです。
そればかりか、考えてみますと、世の
愛欲
(
あいよく
)
の中にあって、
独
(
ひと
)
り生れ
独
(
ひと
)
り
死
(
し
)
んでいく
姿
(
すがた
)
が、
自分
(
じぶん
)
のごまかしのない
姿
(
すがた
)
だったのです。
私たちは
愛欲
(
あいよく
)
からのがれようとしても、のがれることができない
存在
(
そんざい
)
でした。
そうした
人間
(
にんげん
)
の
限界
(
げんかい
)
に気づくとき、はじめて、
愛欲
(
あいよく
)
の中にあって、
愛欲
(
あいよく
)
にしばられない
人生
(
じんせい
)
が
開
(
ひら
)
かれるのではないでしょうか。
それを、身をもって身近に知らして下さった人こそ、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
です。
もし、
愛欲
(
あいよく
)
を
愛欲
(
あいよく
)
としてめざめることがなかったら、いつも、他をしばり、自己をもしばり、 その
愛欲
(
あいよく
)
のとらわれから、 苦しみは断えないでしょう。
考えてみますと、私たちは自動車の部品のことは細かに知っていても、いろいろの愛の区別はほとんど知らないのです。
何でもかでもいっしょくたに「愛」と名づけて、何か上等のもののように思っています。
とんでもないことです。
「愛」のなかにある「愛欲」のあやうさを知らずして、人を愛することはできません。
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