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法 話
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【 私の如是我聞 】
第86回
おのれこそ おのれのよるべ
更新
平成30年10月
『おのれこそ おのれのよるべ
おのれをおきて 誰れによるぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことにがたき よるべをぞえん』
【「法句経」】
人
(
ひと
)
は、
自分自身
(
じぶんじしんしん
)
がだれであるか、どこにいるかを、
常
(
つね
)
に
確
(
たし
)
かめようとするものです。
そして、
人
(
ひと
)
は
自分
(
じぶん
)
の
姿
(
すがた
)
や いどころを
見出
(
みいだ
)
そうとするとき、いつも、
自分自身
(
じぶんじしん
)
が
愛
(
あい
)
し
得
(
え
)
るような
姿
(
すがた
)
と いどころを
見出
(
みいだ
)
そうと、
本能的
(
ほんのうてき
)
に
努
(
つと
)
めるものではないでしょうか。
そして、
自分
(
じぶん
)
で
自分
(
じぶん
)
が
愛
(
あい
)
せるような
人間
(
にんげん
)
になろうとするとき、
人
(
ひと
)
は
他人
(
たにん
)
に
愛
(
あい
)
され、ほめられ、
うらやましがられるような
自分
(
じぶん
)
の
姿
(
すがた
)
を
夢
(
ゆめ
)
みるのが
普通
(
ふつう
)
です。
しかし、
他人
(
たにん
)
に
愛
(
あい
)
されようとすれば、
他人
(
たにん
)
の
気
(
き
)
に
入
(
い
)
るような
人間
(
にんげん
)
として、
自己
(
じこ
)
を
表現
(
ひょうげん
)
しなければならず、
他人
(
たにん
)
の
心
(
こころ
)
をよりどころとして、
自分自身
(
じぶんじしん
)
のあり
方
(
かた
)
を
定
(
さだ
)
めなければなりません。
他人
(
たにん
)
が
自分
(
じぶん
)
をどう
思
(
おも
)
うかということを、いつも
気
(
き
)
にしながら
生
(
い
)
きて
行
(
い
)
くということになります。
他人
(
たにん
)
の
気持
(
きも
)
ちが
変
(
か
)
われば、
自分
(
じぶん
)
もまた、その
変
(
か
)
わった
気持
(
きも
)
ちに
合
(
あ
)
うように
変
(
か
)
えて
行
(
い
)
かねばならないでしょう。
そして、また、いっそう
都合
(
つごう
)
の
悪
(
わる
)
いことには、すべてのひとの
心
(
こころ
)
に
受
(
う
)
け
入
(
い
)
れられ、
愛
(
あい
)
されるような
人間
(
にんげん
)
になることは、ほとんど
不可能
(
ふかのう
)
です。
こうして、
他人
(
たにん
)
の
心
(
こころrt>
)
をよりどころとして、
自分自身
(
じぶんじしん
)
のあり
方
(
かた
)
を
決
(
き
)
めていくよりも、
自分自身
(
じぶんじしん
)
の
中
(
なか
)
に
自分
(
じぶん
)
のあり
方
(
かた
)
を
見出
(
みいだ
)
していき、
自分自身
(
じぶんじしん
)
をととのえてこそ、
人
(
ひと
)
は、ほんとうに
自分
(
じぶん
)
を
愛
(
あい
)
することができるようになるのではないでしょうか。
そのためには、
人
(
ひと
)
は、
他人
(
たにん
)
の
心
(
こころ
)
に
映
(
うつ
)
った
自分
(
じぶん
)
の
姿
(
すがた
)
を
見
(
み
)
るのではなく、
自分
(
じぶん
)
のありのままの
姿
(
すがた
)
を
見
(
み
)
なければなりません。
ありのままの
自分
(
じぶん
)
の
姿
(
すがた
)
が
分
(
わ
)
からなければ、
自分
(
じぶん
)
の
姿
(
すがた
)
をととのえることは
出来
(
でき
)
ないからです。
しかしながら、そのままの
自分
(
じぶん
)
を
見
(
み
)
るということは、
人間
(
にんげん
)
にとって
不可能
(
ふかのう
)
とさえいえるほどの
難事
(
なんじ
)
であります。
この
困難
(
こんなん
)
への
挑戦
(
ちょうせん
)
こそ、
人間
(
にんげん
)
に
課
(
か
)
せられた
最高
(
さいこう
)
の
闘
(
たたか
)
いであるといえましょう。
仏道
(
ぶつどう
)
は、ここから
始
(
はじ
)
まるのではないでしょうか。
ところで、
近
(
ちか
)
ごろの
社会
(
しゃかい
)
は、 「
他人志向型
(
たにんしこうがた
)
」の
社会
(
しゃかい
)
であるといわれます。
たえず
他人
(
たにん
)
が
何
(
なに
)
を
考
(
かんが
)
えているか、ひとが
自分
(
じぶん
)
をどう
思
(
おも
)
っているかを
計
(
はか
)
るために、レーダーをそなえて、それにもとづいて
生活
(
せいかつ
)
してゆく
人
(
ひと
)
が
多
(
おお
)
い世の中です。
こういう
時
(
とき
)
にこそ、かえっておのれの「よるべ」とする
仏
(
ほとけ
)
の
教
(
おし
)
えが
仰
(
あお
)
がれねばならないと
思
(
おも
)
います。
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