☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

               
第86回 おのれこそ おのれのよるべ 更新 平成30年10月
          
『おのれこそ おのれのよるべ 
 おのれをおきて 誰れによるぞ 
 よくととのえし おのれにこそ 
 まことにがたき よるべをぞえん』 

         【「法句経」】

 ひとは、 自分自身じぶんじしんしんがだれであるか、どこにいるかを、 つねたしかめようとするものです。
 そして、 ひと自分じぶん姿すがたや いどころを 見出みいだそうとするとき、いつも、 自分自身じぶんじしんあいるような 姿すがたと いどころを 見出みいだそうと、 本能的ほんのうてきつとめるものではないでしょうか。
 そして、  自分じぶん自分じぶんあいせるような 人間にんげんになろうとするとき、 ひと他人たにんに  あいされ、ほめられ、
うらやましがられるような 自分じぶん姿すがたゆめみるのが 普通ふつうです。
 しかし、 他人たにんあいされようとすれば、 他人たにんるような 人間にんげんとして、 自己じこ表現ひょうげんしなければならず、 他人たにんこころをよりどころとして、 自分自身じぶんじしんのあり かたさだめなければなりません。
 他人たにん自分じぶんをどう おもうかということを、いつも にしながら きて くということになります。
 他人たにん気持きもちが われば、 自分じぶんもまた、その わった 気持きもちに うように えて かねばならないでしょう。
 そして、また、いっそう 都合つごうわるいことには、すべてのひとの こころれられ、 あいされるような 人間にんげんになることは、ほとんど 不可能ふかのうです。
 こうして、 他人たにんをよりどころとして、 自分自身じぶんじしんのあり かためていくよりも、 自分自身じぶんじしんなか自分じぶんのあり かた見出みいだしていき、 自分自身じぶんじしんをととのえてこそ、 ひとは、ほんとうに 自分じぶんあいすることができるようになるのではないでしょうか。
 そのためには、 ひとは、 他人たにんこころうつった 自分じぶん姿すがたるのではなく、 自分じぶんのありのままの 姿すがたなければなりません。
 ありのままの 自分じぶん姿すがたからなければ、 自分じぶん姿すがたをととのえることは 出来できないからです。
 しかしながら、そのままの  自分じぶんるということは、 人間にんげんにとって 不可能ふかのうとさえいえるほどの 難事なんじであります。
 この 困難こんなんへの 挑戦ちょうせんこそ、 人間にんげんせられた 最高さいこうたたかいであるといえましょう。
 仏道ぶつどうは、ここから はじまるのではないでしょうか。
 ところで、 ちかごろの 社会しゃかいは、  「他人志向型たにんしこうがた」の 社会しゃかいであるといわれます。
 たえず 他人たにんなにかんがえているか、ひとが 自分じぶんをどう おもっているかを はかるために、レーダーをそなえて、それにもとづいて 生活せいかつしてゆく ひとおおい世の中です。
こういう ときにこそ、かえっておのれの「よるべ」とする ほとけおしえが あおがれねばならないと おもいます。
                       


※『ひかりの言葉』
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