このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第85回
めぐまれためざめ
更新
平成30年9月
『たまたま
行信
(
ぎょうしん
)
を
獲
(
え
)
ば、
遠
(
とお
)
く
宿縁
(
しゅくえん
)
を
慶
(
よろこ
)
べ』
【『
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
』】
人生
(
じんせい
)
は
長
(
なが
)
さではなく、めざめであります。
めざめない
人生
(
じんせい
)
をどれだけ
長
(
なが
)
く
生
(
い
)
きても、それは
流転
(
るてん
)
のいのちであり、
空
(
むな
)
しく
過
(
す
)
ぎるのみであります。
それではこの
世
(
よ
)
に
人間
(
にんげん
)
として
生
(
う
)
まれさせていただいた
意味
(
いみ
)
も、 ほんとうの
慶
(
よろこ
)
びも
獲
(
え
)
られません。
ひるがえって、めざめた
人生
(
じんせい
)
ならば、
長
(
なが
)
すぎるはずはありません。
日日
(
ひび
)
これ
新
(
あら
)
たであり、
今
(
いま
)
のひと
時
(
とき
)
に
深
(
ふか
)
さと
広
(
ひろ
)
がりをかみしめることができるのであります。
ところで、せっかく
人間
(
にんげん
)
に
生
(
う
)
まれさせていただいたこのいのちを
流転
(
るてん
)
の
生
(
せい
)
にひきずられることなく、
空
(
むな
)
しく
過
(
す
)
ぎ
去
(
さ
)
ることのないようにする
道
(
みち
)
はどこにあるのでしょうか。
それは、まさに
生命
(
せいめい
)
の
決定的
(
けっていてき
)
めざめ-
行信
(
ぎょうしん
)
-を
獲
(
え
)
る
世界
(
せかい
)
であると
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は
告
(
つ
)
げられました。
聖人
(
しょうにん
)
は、
自
(
みずか
)
らをごまかしなく
正視
(
せいし
)
されて、「われ」への
執
(
とらわ
)
れと
煩
(
わずら
)
い
悩
(
なや
)
みから
離
(
はな
)
れられない
凡夫
(
ぼんぶ
)
は、
自分
(
じぶん
)
のはからいの
力
(
ちから
)
では、ほんとうの
決定的
(
けっていてき
)
めざめはありえないことを
見
(
み
)
きわめられ、ひるがえって、そのような
凡夫
(
ぼんぶ
)
にこそ
如来
(
にょらい
)
はほんとうの
信心
(
しんじん
)
のめざめを、めぐみ
施
(
ほどこ
)
してくだされたのだ、とお
慶
(
よろこ
)
びになられたのであります。
すなわち、
自分
(
じぶん
)
のこころのどこにもありえないことがらが
開
(
ひら
)
き
発
(
おこ
)
されたのであります。
そこにおどろきと
感動
(
かんどう
)
の
世界
(
せかい
)
がよび
起
(
お
)
こされたのでした。
「たまたま
行信
(
ぎょうしん
)
を
獲
(
え
)
ば」というこの
言葉
(
ことば
)
に「めぐまれためざめ」への
限
(
かぎ
)
りなき
喜
(
よろこ
)
びと
謝念
(
しゃねん
)
が
吐露
(
とろ
)
されています。
そして、「めぐまれためざめ」の
地平
(
ちへい
)
からは、あらゆる
過去
(
かこ
)
の
縁
(
えん
)
を
喜
(
よろこ
)
ぶ
世界
(
せかい
)
が
開
(
ひら
)
けてくると
述懐
(
じゅっかい
)
されたのでした。
順縁
(
じゅんえん
)
、すなわち
喜
(
よろこ
)
びの
縁
(
えん
)
もあれば、
逆縁
(
ぎゃくえん
)
すなわち
悲
(
かな
)
しみの
縁
(
えん
)
もあります。
人生
(
じんせい
)
には
晴
(
は
)
れた
日
(
ひ
)
もあれば
雨
(
あめ
)
の
日
(
ひ
)
もあり、
暖
(
あたた
)
かい
日
(
ひ
)
もあれば
冷
(
つめ
)
たい
日
(
ひ
)
もあります。
しかし、
人間
(
にんげん
)
を
育
(
そだ
)
てるのは
順縁
(
じゅんえん
)
ばかりではありません。
「
逆境
(
ぎゃっきょう
)
にまさる
恩師
(
おんし
)
なし」という
言葉
(
ことば
)
もあります。
逆縁
(
ぎゃくえん
)
もまた
深
(
ふか
)
い
意味
(
いみ
)
があるというべきであります。
風向
(
かざむ
)
きがよいと
眼
(
め
)
がくらみ
逆風
(
ぎゃくふう
)
にあうと
真実
(
しんじつ
)
がみえてくる【榎本 栄一】
たしかに
順風
(
じゅんぷう
)
に
乗
(
の
)
ると、おごりたかぶって
眼
(
め
)
がくらんでくるのです。
逆風
(
ぎゃくふう
)
にあって、
今
(
いま
)
まで
見
(
み
)
えなかった
真実
(
しんじつ
)
がみえてくることであります。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は
真実
(
しんじつ
)
のめざめの
地平
(
ちへい
)
から
順縁
(
じゅんえん
)
に
深
(
ふか
)
い
謝念
(
しゃねん
)
をいだかれ、
逆縁
(
ぎゃくえん
)
に
真実
(
しんじつ
)
への
高
(
たか
)
いひるがえりを
見出
(
みいだ
)
されて、ほんとうの
明
(
あか
)
るさと
確
(
たし
)
かさのある
人生
(
じんせい
)
を
身
(
み
)
をもってお
示
(
しめ
)
しくだされました。
順縁
(
じゅんえん
)
、すなわち
喜
(
よろこ
)
びを
慶
(
よろこ
)
ぶとともに、
逆縁
(
ぎゃくえん
)
すなわち
悲
(
かな
)
しみをもだきあげて
慶
(
よろこ
)
びと
成
(
な
)
さしめられる
世界
(
せかい
)
こそ、
真実
(
しんじつ
)
のめざめの
世界
(
せかい
)
であることを
告
(
つ
)
げてくだされたことであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社
電話 0120-464-583
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。