このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第84回
ひとは信仰によって
激流
(
げきりゅう
)
を渡り
更新
平成30年8月
『ひとは、
信仰
(
しんこう
)
によって
嘉号
(
かごう
)
は
激流
(
げきりゅう
)
を
渡
(
わた
)
り、
精励
(
せいれい
)
によって
海
(
うみ
)
をわたる。
勤勉
(
きんべん
)
によって
苦
(
くる
)
しみをこえ、
智恵
(
ちえ
)
によって
全
(
まった
)
く
清
(
きよ
)
らかとなる。』
【「
経集
(
きょうしゅう
)
」】
信仰
(
しんこう
)
、
精励
(
せいれい
)
、
勤勉
(
きんべん
)
、
智恵
(
ちえ
)
、この四つのことは、
生
(
い
)
きることを
全
(
まっと
)
うするために
必須
(
ひっす
)
の
要素
(
ようそ
)
です。
人生
(
じんせい
)
の
激流
(
げきりゅう
)
を
渡
(
わた
)
るのは
信仰
(
しんこう
)
によります。
しかし、
信仰
(
しんこう
)
さえあればなにもいらないというものではありません。
信仰
(
しんこう
)
を
灯
(
ともしび
)
として、
私
(
わたし
)
たちは
勤勉
(
きんべん
)
にはげまねばなりません。
信仰
(
しんこう
)
は
努力
(
どりょく
)
を
不要
(
ふよう
)
にするものではなくて、
私
(
わたし
)
たちの
正
(
ただ
)
しい
努力
(
どりょく
)
をますます
促
(
うなが
)
すものであります。
逆
(
ぎゃく
)
に、
精励
(
せいれい
)
し
努力
(
どりょく
)
さえしておればそれでいいのだ、と
考
(
かんが
)
える
人
(
ひと
)
もありましょう。
それはあやまりです。
私
(
わたし
)
たちの
努力
(
どりょく
)
はいつでも
正当
(
せいとう
)
に
報
(
むく
)
いられるとはかぎりません。
そのとき
自分
(
じぶん
)
の
努力
(
どりょく
)
が
大
(
おお
)
きければ
大
(
おお
)
きいほど、また
熱心
(
ねっしん
)
であればあるほど、
平静
(
へいせい
)
な
心持
(
こころも
)
ちをたもつことは
難
(
むつか
)
しいといわねばなりません。
その
動揺
(
どうよう
)
によって、ともすれば
私
(
わたし
)
たちの
努力
(
どりょく
)
は
正
(
ただ
)
しい
道
(
みち
)
からそれ
易
(
やす
)
いのであります。
その
私
(
わたし
)
たちの
努力
(
どりょく
)
を
正
(
ただ
)
しく
導
(
みちび
)
くものこそ
信仰
(
しんこう
)
でありましょう。
信仰
(
しんこう
)
があれば、
私
(
わたし
)
たちの
努力
(
どりょく
)
がどんな
激流
(
げきりゅう
)
に
流
(
なが
)
されても、
決
(
けっ
)
して
絶望
(
ぜつぼう
)
したりヤケになったりすることはありません。
かえって
静
(
しず
)
かに
自分
(
じぶん
)
を
反省
(
はんせい
)
するゆとりを
持
(
も
)
つことができるのです。
そこに
自分
(
じぶん
)
を
浄化
(
じょうか
)
する
智恵
(
ちえ
)
があります。
苦労
(
くろう
)
したことによって
悪
(
わる
)
くなる
人
(
ひと
)
と、
苦労
(
くろう
)
によって
磨
(
みが
)
かれてゆく
人
(
ひと
)
との
相違
(
そうい
)
が、そこに
出
(
で
)
てくるのだと
思
(
おも
)
います。
苦
(
くる
)
しむことが
智恵
(
ちえ
)
のもとになるように、そういうふうに
苦
(
くる
)
しみたいものだと
思
(
おも
)
います。
そしてそれは、その
人
(
ひと
)
に
信仰
(
しんこう
)
があるかないかによって
決
(
き
)
まるものではないでしょうか。
※『ひかりの言葉』
本願寺出版社
電話 0120-464-583
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。