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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第82回
足
(
た
)
りないものは音を立てるが
更新
平成30年6月
『
足
(
た
)
りないものは音を立てるが、
満
(
み
)
ち
足
(
た
)
りたものは全く静かである。
愚者
(
ぐしゃ
)
は
半
(
なか
)
ば水を盛った
瓶
(
かめ
)
のようであり、賢者は水の満ちた池のようである。』
【「
経集
(
きょうしゅう
)
」】
愚者
(
ぐしゃ
)
は、
他人
(
ひと
)
の上ばかり見て、自分をかえりみないものです。
他人の欠点をだらだらあげ、あげくのはては、他人が悪い、世の中が悪い、と わめき
散
(
ち
)
らします。
ちょうど小川はいつも音を立てているように、こんな人は
愚痴
(
ぐち
)
、不平、不満、怒りの音がたえる時がありません。
その音が激しく、大きくなればなるほど、他の音が聞こえなくなってしまうものです。
その人は聞き入れる耳を持たなくなります。
その
雑音
(
ざつおん
)
が大きければ、イライラしてきて、最後には、自己もだいなしにし、 他をも害することになります。
そして、そんな人にかぎって、口からは、およそ
人生
(
じんせい
)
は
無意味
(
むいみ
)
だとか何とかいうのです。
賢者とは、自己をよく知っている人、また聞く耳と見る目を持っている人のことです。
聖者は言っています。
過
(
す
)
ぎ
去
(
さ
)
れるを
追
(
お
)
い
念
(
おも
)
うことなかれ、
未
(
いま
)
だ
来
(
きた
)
らぬを
待
(
ま
)
ち設くることなかれ。
過去は過ぎ去り、未来は未だ来らざればなり。
ただ現在の法をみよ。
うごかず、たじろがず、それを知りて、ただ育てよ。
今日なすべきことをなせ。
えてして
老人
(
ろうじん
)
は「昨日」を語りたがり、 若人は「明日」を語りたがるものです。
けれど、昨日はもう過ぎ去ったことで、明日はまだ来ぬことなのです。
あるのは「今」であります。
その
時
(
とき
)
を むだにする
人
(
ひと
)
には、よろこびはありません。
過
(
す
)
ぎ
去
(
さ
)
ったことにくよくよし、まだ
来
(
こ
)
ぬ
先
(
さき
)
のことにあくせくし、
有
(
あ
)
っても
無
(
な
)
くっても、どちらにしても、
愚痴
(
ぐち
)
をいっているのです。
今
(
いま
)
を
確
(
たし
)
かに
歩
(
あゆ
)
み、
自己
(
じこ
)
を
知
(
し
)
っている
人
(
ひと
)
は、
今日
(
きょう
)
の
一日
(
いちにち
)
の中に、
限
(
かぎ
)
りないよろこびを
見出
(
みいだ
)
します。
その
人
(
ひと
)
は、あたかも
水
(
みず
)
の
満
(
み
)
ちた
池
(
いけ
)
のように、静かに、しみじみと生きる喜びを味わう人です。
そこでは
雑音
(
ざつおん
)
もいつしかメロディーとなります。
聖者
(
せいじゃ
)
の言葉は、すべてこの味わいからほとばしった
讃歌
(
さんか
)
であり、
偈
(
うた
)
ではありませんか。
そのうたは、
今日一日
(
きょういちにち
)
を
確
(
たし
)
かに生きている
人
(
ひと
)
の
声
(
こえ
)
なのです。
幸福
(
こうふく
)
な人の心は、
許
(
ゆる
)
し
合
(
あ
)
うこと、助け合うこと、生かされていること、与えること、
恵
(
めぐ
)
まれていることを知っていて、静かにみちたりています。
※『光の言葉』
本願寺出版社
電話 0120-464-583
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