☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

               
第81回 底知そこしれぬ闇にあえぐ 更新 平成30年5月
          
無碍むげ光明こうみょう無明むみょうあんする 惠日えにちなり』
         【「教行信証きょうぎょうしんしょう」】
 
 一見いっけん、 はなやかに見える 今日こんにちの世の奥底に、混とんとした 深淵しんえんを思わせられる状況がひそんでいます。
「いじめ」ということ一つをとりあげても大変な社会問題であります。
 人間は、悪いこと、困ったことが起こった時、その責任を他に転嫁てんかする習性を もっているのでしょうか。
「時代が悪い」「社会が悪い」「今の子供が悪い」「先生が悪い」「家庭が悪い」「友達が悪い」など、さまざまであります。
 ここでは「自分」が「ぬけがら」になっているという共通点があります。
 それで問題が片づくほど浅いことがらではありません。

 一寸いっすん先は やみという よくみれば その闇は
 私の中にある ときには 月ものぼるが
              【榎本 栄一】

 一寸いっすん先は闇というけれど、よくみれば、私の中にあることが 見破られる世界があるというのです。
やみとは 無明むみょうのことです。
仏教で「明るさがない」ということは、ものの実態をそのまま、ありのままにみる 智慧ちえがないということです。
 いま、ものの実態といいましたが、つきつめていえば、無明むみょうとは 自分が見えないということであります。
 「ときには月がのぼる」というのは、自分の背中まで らし出す、なにものにも、さまたげられない 阿弥陀如来あみだにょらいひかりうことでありましょう。
 さわりのない 光明こうみょうらし出された私と、この世の実態とはどういうあり方でありましょうか。
 それは、私の 無智むちわずらなやみが、この世を生み出し、この世の にごりが私に んでいるともいうべきでしょうか。
つまり、現実に巻きこまれている私、私が巻きこんでいる現実というべきでありましょう。
 このように らし出されてみると、悪は 対岸たいがんにあるのではないということです。
おのれの にごりが時代・社会を濁し、時代・社会の にごりがいよいよ私を わずらなやますのであります。
 この私自身と時代社会の 無明むみょうの闇を 照破しょうはするはたらきを 「無碍むげ光明こうみょう」 であると説き明かしてくだされたのであります。
   親鸞聖人しんらんしょうにんは、自ら 『唯信鈔文意』に
無明むみょうやみをはらひ、 悪業あくごうにさへられず、このゆゑに 無碍光むげこうと申すなり。 無碍むげはさはりなしと申す。
しかれば阿弥陀仏あみだぶつ光明こうみょうなり。 光明こうみょう智慧ちえのかたちなりとしるべし」
と述べられています。
  底知そこしれない 無智むち煩悩ぼんのうやみにあえぐ「われ」と「われら」の 世界せかいに、さわりなき 光明こうみょう徹照てっしょうしてくだされたことにうなずく 世界せかい信心しんじんのめざめであります。
 まことにめざめの 世界せかいはおおいなるうなずきであり、 明晰めいせきの眼であります。
                        


※『真宗法語しんしゅうほうごの こころ』中西 智海
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