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☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第80回
自
(
みずか
)
らをともしびとし
更新
平成30年4月
『
自
(
みずか
)
らをともしびとし、
自
(
みずか
)
らをよりどころとせよ。
法
(
ほう
)
をともしびとし、
法
(
ほう
)
をよりどころとせよ。』
【「
涅槃経
(
ねはんきょう
)
」】
これは
釈尊
(
しゃくそん
)
が死にのぞんで、弟子たちに
遺言
(
ゆいごん
)
されたことばであるとされています。
まことに偉大な釈尊の
最期
(
さいご
)
にふさわしい、意味深いことばであると思います。
ところで、
自
(
みずか
)
らをよりどころとするとはどういうことでしょうか。
ちょっと見ると、何か自己中心的な生き方のように思われますが、釈尊がすすめておられるのはそういうことではありません。
たとえば、こんな相談を受けられたら、あなたは何と答えられますか。
「すしもおいしそうだ、テンプラもうまそうだ、
僕
(
ぼく
)
はどっちを食べたらいいのでしょう」
こういう人には何とも答えようがないと思います。
「どっちでも好きなものを食べなさい」というより仕方がありません。
すると、そういう人は、おそらく
次
(
つぎ
)
のようにいうでしょう。
「すしを食べたら、テンプラは食べられない。テンプラを食べたら、すしが食えない」
まるでそれが
他人
(
ひと
)
ごとであるかのような言い方です。
これは
極端
(
きょくたん
)
な例ですけれど、
新聞
(
しんぶん
)
の
人生相談
(
じんせいそうだん
)
などを見ていますと、
結局
(
けっきょく
)
このような
問
(
と
)
いが
多
(
おお
)
いのではないかと思います。
何
(
なに
)
よりも
問題
(
もんだい
)
が
自分
(
じぶん
)
の
問題
(
もんだい
)
になっていない、自分の問題がひとごとのように
問
(
と
)
われているのです。
これこそ
自
(
みずか
)
らをよりどころとしていない人でしょうか。
そんな
人
(
ひと
)
には、どんな
立派
(
りっぱ
)
な
法
(
ほう
)
も、馬の耳に念仏でしょう。
自己
(
じこ
)
と
法
(
ほう
)
とはいつも
相関的
(
そうかんてき
)
です。
法
(
ほう
)
はつねに
自己
(
じこ
)
の
体験
(
たいけん
)
で
裏打
(
うらう
)
ちされてこそ生きた
法
(
ほう
)
であり、
逆
(
ぎゃく
)
に私たちの
体験
(
たいけん
)
も、つねに
法
(
ほう
)
の光によって導かれなくてはならないのです。
法
(
ほう
)
に導かれない
自己
(
じこ
)
はおろかであり、
自己
(
じこ
)
を抜きにした
法
(
ほう
)
は
空虚
(
くうきょ
)
です。
※『ひかりの
言葉
(
ことば
)
』
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