☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

               
第79回 いまこそめざめるとき  更新 平成30年3月
          
難思なんじ弘誓ぐぜい難度海なんどかいする 大船だいせん
             【教行信証】 
 今日こんにちという時代は人間と人生を楽観的に考える流れがあると思われます。
それは、科学の発達、技術の進歩、産業の発展などが人間の力でなされたことによって、人間の夢を実現させたということと関連するように思われます。
ところが、この人間に対する自負の流れの 却下きゃっかに少年の自殺、いや、今日では職場でも、家庭でももっとも自信をもって生きるはずの 壮年の自殺が「白書」に報告され、問題を発起している状況です。
これは、ほんとうの生きがいが見当たらないということからくるのでしょう。
すなわち、いま、ここに生きている意味、理由とたしかな人生の目標、未来がわからなくなった時、人間だけが起こす行為が自殺であります。
 このような楽観的な流れの直下ちょっかにきわめて悲観的な潮流がひそんでいるのが今日の現実で ありましょう。
 このような時に、この世を、すなわち、私と世界を
難度海なんどかい」とおさえられた言葉の深みを思わずにはおられません。
私たちは、時の流れに乗ることは簡単であり、安易な道でありましょう。
なるべく楽しく、自分を高めてくれる言葉に甘えて生きたいと思うことでしょう。
その意味で、人生は流されて生きることはたやすいことですが、この人生をほんとうに「渡る」ことは 至難しなんであると説かれたのであります。
 もともと、仏教ではこの人生を「苦」とうけとめられています。           
「苦」は単に「楽」に対する相対的な意味ではありません。
「苦」とは「思いどおりにならぬこと」「心身を悩まされて不安な状態」 【中村 元『仏教語大辞典』】とあるように、欲望通りにならない矛盾的仕組みをもつものであり、きわめて「不安」なあり方であるというのであります。
生死しょうじの苦海」といわれるのはそのことであります。
 この思い通りにならない 矛盾的むじゅんてき仕組みの人生、不安な人生-それは海にたとえられているように 底知れぬ 深淵しんえんであり、うずまく 波濤はとうである-に、かけられている深く ひろ誓願せいがんがあると説かれるのであります。
難思なんじ弘誓ぐぜい」といわれるのはそのことです。
 親鸞聖人しんらんしょうにんは自ら 「『』はひろしといふ、ひろまるといふ、 『ぜい』はちかひといふなり。
法蔵比丘ほうぞうびく超世無上ちょうせむじょうのちかひをおこして、ひろくひろめたまふと もうすなり」【唯信鈔文意】と解釈されています。
 死を背負い、 わずらい悩み苦悩する人間と人生のありのままのすがたを 「難度海なんどかい」とうけとめ、そのいつわりない世界を 「仏かねて知ろしめして」かけてくだされた 誓願せいがんにめざめて生きる人間でありましょうか。
いまこそ、楽観と悲観の人生観ではなく、難度「海」を度する 弘誓ぐぜいの「大船だいせん」 にめざめるときであります。
                        

※『真宗法語しんしゅうほうごの こころ』中西 智海
本願寺出版社 
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