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☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第77回
信仰のおごり*
道徳
(
どうとく
)
と宗教
更新
平成30年1月
お寺にお参りをすることを、自分自身の
善行
(
ぜんぎょう
)
のように思っている人がおられます。
また、「私は毎日こんな奉仕をやっている」と自分の善行や美徳を少々得意げに語る人もおられます。
せっかくの
仏縁
(
ぶつえん
)
や
徳行
(
とくぎょう
)
に自分の
手垢
(
てあか
)
がついてしまっているのです。
しかし、
一方
(
いっぽう
)
で、そのような人びとを見て、
「あれは道徳のレベルだ。真宗の教えではない。」
と非難する僧侶やお
同行
(
どうぎょう
)
がおられます。
確かに宗教は道徳や倫理の
領域
(
りょういき
)
を超えたところで語られるものであります。
「
阿弥陀
(
あみだ
)
さまのご本願は、
老少善悪
(
ろうしょうぜんあく
)
の人をえらばない」といわれるように、人間の善悪の基準は 絶対的なものではないと否定されるところにこそ、宗教の領域があるのです。
けれども、「あれは間違いだ。真宗がわかっていない」という言葉や態度に「信仰のおごり、 宗教者の
傲慢
(
ごうまん
)
」が見え隠れすることはないでしょうか?
なるほど宗教は
一旦
(
いったん
)
は厳しく道徳的見方を否定しますが、それだけに
留
(
とど
)
まっているのではなく、今度は宗教的立場から日常生活の道徳性を見直すものなのです。
善導大師
(
ぜんどうだいし
)
【六一三〜六八一】のお書物の中に、次のような お
釈迦
(
しゃか
)
さまとお弟子のお話が引用されています。
あるとき、至るところに餓死者の白骨があるというひどい
飢饉
(
ききん
)
が起こりました。
弟子を案じて一番最後に
托鉢
(
たくはつ
)
をされる お
釈迦
(
しゃか
)
さまは、もう何日も食しておられず、ずいぶん
衰弱
(
すいじゃく
)
しておられました。
あるお弟子が、お釈迦さまのお姿を見るに忍びず、自分の
袈裟
(
けさ
)
や
衣
(
ころも
)
を売って、一鉢の食べ物をお釈迦さまに
供養
(
くよう
)
しました。
お
釈迦
(
しゃか
)
さまは、
「この食はどうして手に入れたか」
とお尋ねになり、お弟子がありのままを話すと、
「気持ちは有り難いが
袈裟
(
けさ
)
や
衣
(
ころも
)
を売って得た食べ物では、いただくわけにはいかない。そなたのご両親に差し上げなさい」
と
仰
(
おお
)
せになりました。
お弟子は驚いて、
「この世の中で最も尊いお釈迦さまが食されないものを、どうして私の両親が食せるでしょうか」
と申し上げると、お釈迦さまは、
「そなたにはご両親に対して生を受けたという
大恩
(
だいおん
)
がある。だから、ご両親はこの食を受けるに値するのだ」
と仰せになりました。
さらに、
「ご両親は信心があるか」
とお尋ねになり、お弟子が、
「まったく
仏法
(
ぶつぽう
)
を信ずる心はありません」
とお答えしたところ、お釈迦さまは、
「いま、この食をご両親に
供養
(
くよう
)
すれば、そなたが親を思って食物を
供養
(
くよう
)
したことを大いに喜ばれ、それがご縁となって仏法を信じるようになられるに違いない」
と仰せになりました。
お弟子は、お釈迦さまの衰弱されたお姿に心を残しながらも、仰せの通りご両親に食を供養されたのでした。
このお話は、宗教と道徳の関係を示しています。
この世の何よりも、両親よりも、仏を優先させるべだというお弟子の態度は、ある意味では仏法が世間の倫理や道徳を超えた法であることを象徴しています。
しかし、お釈迦さまはその態度を否定して両親への孝養を勧められます。
しかも、ただ単に両親に
供養
(
くよう
)
せよといって勧められるのではなく、 このことが縁となって仏法を信じるようになることを望んでおられるのです。
宗教と道徳は同じではありません。
しかし、
宗教
(
しゅうきょう
)
は
道徳
(
どうとく
)
と離れたところに
超然
(
ちょうぜん
)
としてあるのではなく、
宗教的立場
(
しゅうきょうてきたちば
)
から
道徳
(
どうとく
)
を
包含
(
ほうがん
)
し、道徳に新たな意味を与えるものなのです。
※『ひらがな真宗』本願寺出版社 定価:\756(本体\700+税) 電話 0120-464-583
最近、「仏教の言葉がむずかしい」「漢字が多くてどうも」という若い方の声や、「高校生や中学生にもわかりやすく真宗のご法話をしたいが」 という年輩方の声をよく耳にします。
※本書は、『ひらがな真宗』の題が示すとおり、まさにその声にこたえるべき待ち望まれていた書です。
「
名号
(
みょうごう
)
」 「
本願
(
ほんがん
)
」 「
浄土
(
じょうど
)
」 「
他力
(
たりき
)
」といった真宗の用語を、その用語のしめす雰囲気でわかったつもりで使うのでなく、 専門的な言葉を使わずに説明したり、ご法話するすることは簡単なことではありません。
また、せっかくわかりやすくと思っても、やさしい言い回しにとらわれすぎて、真宗の教えの真意がうすれてしまっては意味がありません。
その点でも本書は、実にすぐれた書であるといえます。
若い方にもわかりやすく、日常生活の中の身近な話題をピックアップしていて、肩の力を抜いて読むことができます。
それでいて温もりのある、心にひびく文章には、こども会を続けてこられた森田氏【森田 真円氏】のお人柄があふれているような気がします。
一九九九年十二月
東光 爾英 【『ひらがな真宗』「はじめに」より抜粋】
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