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法 話
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【 私の如是我聞 】
第76回
お浄土にかえる?*
還相回向
(
げんそうえこう
)
更新
平成29年12月
最近のお葬式で、よく耳にするのが、
「○○さんは、○月○日に、お浄土におかえりになりました」
という司会者の言葉です。また司会者に限らず、ご遺族のお礼の ご
挨拶
(
あいさつ
)
でも、そのようにおっしゃる場合があります。
お浄土に生まれ
往
(
ゆ
)
く、つまり「往生する」とは言わないで、「お浄土にかえる」という方が、 新鮮な感じがするのか、ある種、流行になっているように思えます。
この「お浄土にかえる」とは、いったいどういう意味で言われているのでしょうか?そもそも「かえる」というのは、もともと居た場所に「かえる」のでありましょう。
ですから、「お浄土にかえる」と言えば、煩悩だらけの私が、もともとは悟りの世界であるお浄土に居たことになり、なんともおかしなことにならないでしょうか?
お
聖教
(
しょうぎょう
)
の中には、往生することを 「
帰去来
(
ききょらい
)
」というように「帰」の字を使用して表現されることもあります。
それは長い間
迷
(
まよい
)
の世界をさまよっていたが、このたびついに、迷いの世界を捨てて 浄土の世界に至るということを、「意を決してこの地を離れ故郷へ帰る」という中国の古詩「帰去来」の表現を借りて、「帰」と示されているのです。
また、お聖教には、「かえる」を 「
還
(
かえ
)
る」と示されたりもします。
これは、迷いの世界に居たものが、お浄土に往生して仏となり、多くの人びとを悟りの世界に導こうとして、再び迷いの世界に戻ってくることを 「還る」と表現されているのです。
大乗仏教の目指す悟りというのは、自分だけが迷いから目覚めればよいというのではなく、他の人びとをも同じく悟りの世界に入らしめようとするものです。
そこで、
阿弥陀
(
あみだ
)
さまは、私たちがお浄土に生まれると、自由自在に人びとを救うことができる 身になると
仰
(
おお
)
せになります。
仏となったうえは、迷い苦しむものを放っておけず、なんとかして悟りの世界に至らせようとして、自らの迷いの世界に「還る」のです。
この場合の「かえる」は、「迷いの世界に還る」であります。
さらにまた、お浄土の世界の仏・
菩薩
(
ぼさつ
)
が、迷いの世界の
教化
(
きょうけ
)
を終えてお浄土に戻ることを「還る」と説かれる場合もあります。
親鸞
(
しんらん
)
さまは、
法然上人
(
ほうねんしょうにん
)
は自分をお浄土に導くためにお浄土からこの世に現れてくださった お方であると仰がれたのでした。
ですから、法然上人が往生されたことは、この世の縁が終わって、もと居たお浄土に「還って」いかれたとおっしゃっています。
ただし、親鸞さまのお示しになられたお書物の中には、
凡夫
(
ぼんぶ
)
がお浄土に往生することを「かへる」と表現されているものもあり、 仏・菩薩だけではなく、凡夫が浄土に還るとも言えるのではないかという考えもあります。
その部分は、浄土に往生して仏となったものが迷いの世界に「かへり」て自由自在に人びとを救うことができるから、浄土に往生することを 「かへる」と言うのであると述べられています。
ですから、力点はやはり迷いの世界に還ることにあるように思えます。
いずれにしても、私を真実に
出遇
(
であ
)
わせていただいたという深い感謝の心がなければならないでしょう。
そういう思いもなく、現在のお葬式では、形式的に「お浄土に還っていかれた」と言われていることが多いように思います。
「お浄土にかえる」という語感に
執
(
と
)
らわれて、迷いから悟りの世界へ生まれ往くという、浄土往生の基本が
等閑
(
なおざり
)
にならないように注意したいものです。
※『ひらがな真宗』本願寺出版社 定価:\756(本体\700+税) 電話 0120-464-583
最近、「仏教の言葉がむずかしい」「漢字が多くてどうも」という若い方の声や、「高校生や中学生にもわかりやすく真宗のご法話をしたいが」 という年輩方の声をよく耳にします。
※本書は、『ひらがな真宗』の題が示すとおり、まさにその声にこたえるべき待ち望まれていた書です。
「
名号
(
みょうごう
)
」 「
本願
(
ほんがん
)
」 「
浄土
(
じょうど
)
」 「
他力
(
たりき
)
」といった真宗の用語を、その用語のしめす雰囲気でわかったつもりで使うのでなく、 専門的な言葉を使わずに説明したり、ご法話するすることは簡単なことではありません。
また、せっかくわかりやすくと思っても、やさしい言い回しにとらわれすぎて、真宗の教えの真意がうすれてしまっては意味がありません。
その点でも本書は、実にすぐれた書であるといえます。
若い方にもわかりやすく、日常生活の中の身近な話題をピックアップしていて、肩の力を抜いて読むことができます。
それでいて温もりのある、心にひびく文章には、こども会を続けてこられた森田氏【森田 真円氏】のお人柄があふれているような気がします。
一九九九年十二月
東光 爾英 【『ひらがな真宗』「はじめに」より抜粋】
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