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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第74回
凡夫やからなあ*
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
更新
平成29年10月
真宗の僧侶や信者がついつい
呟
(
つぶや
)
いてしまうのが、
「ほんまに
親鸞
(
しんらん
)
さまの言われる通りや。
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
の
凡夫
(
ぼんぶ
)
やからなあ・・・」
であります。
けれども、それが単に「人間とはどうしようもない凡夫だ」という自分の思いに照らし合わせただけで、「凡夫だから」と
歎
(
なげ
)
いているのであれば、
親鸞
(
しんらん
)
さまの
歎
(
なげ
)
きとは少し違うのではないでしょうか?
真宗の歎きと
慶
(
よろこ
)
びとはワンセットであると前項で述べましたが、 単なる歎き、つまり
南無阿弥陀仏
(
なもあみだぶつ
)
のはたらきという慶びがバックにない歎きは、 ただの反省や言い訳でしかありません。
その証拠に「凡夫だから」と
呟
(
つぶや
)
くのは、 たいていの場合、事が終わってしまってからであります。
腹立ちまぎれでなした事の言い訳や反省が真宗の歎きではないのです。
かつて私は、米国から日本に真宗を学びにきておられたHさんに、
東大寺
(
とうだいじ
)
を案内したことがあります。
大仏殿
(
だいぶつでん
)
の中で、真宗では見ることのない
朱印帳
(
しゅいんちょう
)
を見た彼は、大変珍しがり、 記念に朱印を押して帰国したいと言われました。
そこで大仏さまの前にある受付に並びましたが、あいにく、係の人はいませんでした。
いくら呼び鈴を押しても誰もやってきません。
十五分ほど経って、たくさんの人が後ろに並び始めました。
先頭にいた私は「何とかならんかな」と思い、ふと窓口を見ると、手を延ばせば届くところに朱印が置いてあります。
僧服を着けていなかったものの、僧侶であるという思いがある私は、並んでいる人びとに向かって、
「私が代わりに
押
(
お
)
しましょう」 と言って、朱印に手を延ばしかけました。
そのときです。大仏さまの方から、
「こらー!」
という大声がしました。
声の
主
(
ぬし
)
は係のおじさんでした。
「
仏
(
ほとけ
)
さまの前やぞ!」
といって私をにらんでいます。
どうやら私が朱印の近くにあった
懇志
(
こんし
)
の箱に手を延ばしたと思ったようでした。
それからは、私とおじさんの激論です。
泥棒と思っているおじさんは、徹底的に私を
罵
(
ののし
)
ります。
間違えられた私がカッとなっているのは言うまでもありません。
日本語のよくわからないHさんはおろおろするばかりです。
さらにおじさんは私だけでは
飽
(
あ
)
きたらず、Hさんまでも
罵
(
ののし
)
り始めました。
Hさんは、よく理解できないながらも、自分が
罵倒
(
ばとう
)
されていることには気づいたようで、 見る見るうちに真っ赤になってこられました。
身体を
震
(
ふる
)
わせている様子からしても怒っているに違いありません。
そのとき、真っ赤になったHさんが怒りに震えながらも何か
呟
(
つぶや
)
かれました。
真横
(
まよこ
)
にいた私の耳に
微
(
かす
)
かに聞こえてきたのは、なんと、
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という低い声でした。
罵
(
ののし
)
りに 罵りでしか応えることのできなかった私は、今もあの低いお念仏の声を忘れることができません。
凡夫は縁にふれたら、怒りを爆発させます。
しかし、怒りに震えながらも、その自分にいま現に、南無阿弥陀仏の お
慈悲
(
じひ
)
がはたらいているのです。
そのお慈悲をいただいてこそ、
煩悩
(
ぼんのう
)
と向き合いつつ煩悩がお慈悲を
慶
(
よろこ
)
ぶ
糧
(
かて
)
とさえなるのです。
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
を自分のしたことの言い訳にすれば、 煩悩を単に肯定しているだけにすぎないのです。
※『ひらがな真宗』本願寺出版社 定価:\756(本体\700+税) 電話 0120-464-583
最近、「仏教の言葉がむずかしい」「漢字が多くてどうも」という若い方の声や、「高校生や中学生にもわかりやすく真宗のご法話をしたいが」 という年輩方の声をよく耳にします。
※本書は、『ひらがな真宗』の題が示すとおり、まさにその声にこたえるべき待ち望まれていた書です。
「
名号
(
みょうごう
)
」 「
本願
(
ほんがん
)
」 「
浄土
(
じょうど
)
」 「
他力
(
たりき
)
」といった真宗の用語を、その用語のしめす雰囲気でわかったつもりで使うのでなく、 専門的な言葉を使わずに説明したり、ご法話するすることは簡単なことではありません。
また、せっかくわかりやすくと思っても、やさしい言い回しにとらわれすぎて、真宗の教えの真意がうすれてしまっては意味がありません。
その点でも本書は、実にすぐれた書であるといえます。
若い方にもわかりやすく、日常生活の中の身近な話題をピックアップしていて、肩の力を抜いて読むことができます。
それでいて温もりのある、心にひびく文章には、こども会を続けてこられた森田氏【森田 真円氏】のお人柄があふれているような気がします。
一九九九年十二月
東光 爾英 【『ひらがな真宗』「はじめに」より抜粋】
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