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☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第56回
一本の道*
時期相応
(
じきそうおう
)
更新
平成28年4月
山に登る道がいろいろあると思っているのは、山の
麓
(
ふもと
)
で山を
眺
(
なが
)
めている
傍観者
(
ぼうかんしゃ
)
であって、 私が歩もうとするならば、道は一つしかないと前項で述べました。
私が真宗を学び始めた二十歳前のころ、ある先輩に質問したことがあります。
「
親鸞
(
しんらん
)
さまは、二十年の
比叡山
(
ひえいざん
)
の修行の結果、
法然
(
ほうねん
)
さまに
出遇
(
であ
)
われて念仏の教えに入られましたよね。
親鸞さまの教えの本当のところは、修行を経験して自分の力の限界を身に感じなければ、わからないのではないでしょうか。」と。
生意気
(
なまいき
)
ざかりの私は、
正論
(
せいろん
)
これにありと勢いこんで言ったに違いありません。
すると、
普段
(
ふだん
)
は
温厚
(
ふおんこう
)
な先輩が、ギロリと私を
睨
(
にら
)
み、
「おまえ、本当にそう思うか。心からそう思うんだな。」
と念をおされました。
私がやや
気圧
(
けお
)
されながら、「ハイ」と答えると、 「じゃあ、今すぐ比叡山に行け」 と大喝されました。
私はその迫力に
背筋
(
せすじ
)
が
凍
(
こおり
)
りつく思いをしたことを今も忘れることができません。
私の質問が、単に
机上
(
きじょう
)
で宗教を
評論
(
ふひょうろん
)
しているにすぎないことを
見抜
(
みぬ
)
かれ、 本気で
仏道
(
ぶつどう
)
を歩もうとしている者の態度ではないと
諫
(
いさ
)
められたのであります。
仏教は
自
(
みずか
)
らの命の問題を解決するものであります。
つまり、「私は何のために生まれ、何のために死んでいくのか。」
「人はなぜ出会い、なぜ別れていかねばならないのか。」
等などと、人間の経験や判断からは直ちに答えの出ない問題に、根本的な解決を与えようとするのが仏教の持っている本質であります。
ですから、自己を抜きにした傍観者や評論者には道は開けず、教えも響いてこないのです。
真宗の
七高僧
(
しちこうそう
)
のお一人である
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
(五六二〜六四五)は、中国の
南北朝時代
(
なんぼくちょうじだい
)
の末から
隋
(
ずい
)
・
唐
(
とう
)
にかけて 生き抜かれたお方であります。
いろいろな国が
興
(
おこ
)
っては
滅
(
ほろ
)
び、また興っては滅ぶ時代でありました。
戦火によって、人びとが理由もなく
無惨
(
むざん
)
に殺され、
疫病
(
えきびょう
)
や
餓死
(
がし
)
が
絶
(
たえ
)
えない
末世
(
まっせ
)
の状況でありました。
死を目前にした
究極
(
きゅうきょく
)
の状況の下で、我中心の思いから
逃
(
のが
)
れられない人間の在り方。
そしてそれが当然であるかのごとく振る舞う人間のありさま。
真に人間とは深い悲しみを背負った存在であることを
痛感
(
つうかん
)
されるのであります。
すでに、お釈迦さまが亡くなって
遥
(
はる
)
かな時が過ぎ去り、直接その教えを受けることもできない。
そればかりか、その影響力さえ
薄
(
うす
)
れていく時代に生きる人間に、 お釈迦さまはどんな教えを
遺
(
のこ
)
してくださっているのか。
私の命の問題に解決を与える道とは何か。
これが道綽禅師の
生涯
(
しょぅがい
)
を通しての問いでありました。
それは決して時代の
傍観者
(
ぼうかんしゃ
)
、仏教の
評論者
(
ふひょうろんしゃ
)
の問いではありません。
そして、ついにこのような時代とその時代に生きねばならない人間とにマッチした教えとは、
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の願いを
仰
(
あお
)
ぐ
浄土教
(
じょぅどきょう
)
にほかならないと、一本の道を示されたのであります。
この道が、やがて日本に伝わり、私たちの道となるのです。
では阿弥陀仏の願いとはどういう願いなのでしょうか。
※『ひらがな真宗』本願寺出版社 定価:\756(本体\700+税) 電話 075-371-4171
最近、「仏教の言葉がむずかしい」「漢字が多くてどうも」という若い方の声や、「高校生や中学生にもわかりやすく真宗のご法話をしたいが」 という年輩方の声をよく耳にします。
※本書は、『ひらがな真宗』の題が示すとおり、まさにその声にこたえるべき待ち望まれていた書です。
「
名号
(
みょうごう
)
」 「
本願
(
ほんがん
)
」 「
浄土
(
じょうど
)
」 「
他力
(
たりき
)
」といった真宗の用語を、その用語のしめす雰囲気でわかったつもりで使うのでなく、 専門的な言葉を使わずに説明したり、ご法話するすることは簡単なことではありません。
また、せっかくわかりやすくと思っても、やさしい言い回しにとらわれすぎて、真宗の教えの真意がうすれてしまっては意味がありません。
その点でも本書は、実にすぐれた書であるといえます。
若い方にもわかりやすく、日常生活の中の身近な話題をピックアップしていて、肩の力を抜いて読むことができます。
それでいて温もりのある、心にひびく文章には、こども会を続けてこられた森田氏【森田 真円氏】のお人柄があふれているような気がします。
一九九九年十二月
東光 爾英 【『ひらがな真宗』「はじめに」より抜粋】
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沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
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