☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第171回 弥陀みだの真実の世界に更新 2025年11月
          
 『信心しんじんをえたるひとをば、 「分陀利華ふんだりけ」とのたまへり。』
 
 【唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい】 
 
 人はだれでも一度とはいわず、この世の矛盾にぶちあたり暗い思いに落ち込むことがあります。
 そして、自分の思い通りにならなくなると「神も仏もあるものか」と言ったりします。その果てに「どうせ、この世はそんなところなのだ」と投げやりになりかねないのです。
 この「どうせ」というのがくせものであり、ついには「どうせ死ぬのだから、それまで適当に生きよう」ということになってしまいます。
 そのような私たちに「どうせ死ぬ」といった退廃的な言葉ではなく、「せっかく」人間として生まれさせていただいた、このいのちを完全燃焼して人生を尽くす道があり、そのことを告げているのが み仏の教えであり、浄土真宗であります。
 親鸞聖人は、もとよりこの世を単純に認める楽観的な人生観をもたれたのでもなく、さりとて暗い、醜いところだからどこかへ逃避するという考えはもうとうなかったのです。
 「煩悩具足の凡夫、 火宅無常かたくむじょうの世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき、【歎異抄】と述懐されて、 自我と煩悩から生み出された世界のどこに真実があるかと厳しくおのれの迷妄性と、それから形成された火宅の世を悲痛されています。
 しかし、その煩悩と火宅の現実の只中を「ただ念仏のみぞまことにておはします」と、みずからの生命を念仏の真実に依りどころをもたれ生き抜かれたのであります。
 この醜い、泥沼のような現実を逃げもかくれもせずに「ただ念仏」を真実とされて生きる信心の行者、念仏申すものを分陀利華【ふんだりけ】にたとえたもうと この法語は説き明かされています。
 分陀利華  すなわち蓮の花は、それこそ高原の陸地や、 あゆの飛びかう清水には生息しません。
 よどんだ泥沼に生き、そこへどっぷりとつかりこんで、そこから栄養分を吸いあげ、自からの生命を維持し、しかも、そのよどんだ泥沼とうらはらな清らかな はなを咲かせるのであります。
 この蓮の華こそ、念仏者のあり方を見事に言いあてているといわれるのであります。
 私たちは、それこそ臨終の一念まで、煩い、悩み、そねみ、ねたむこころで火宅の世をつくりあげているのです。
 そのいつわることのできない私を、この世の底をひるがえしてくだされる念仏を依りどころに生きる時、この世を如来の大悲の中に生き、やがては弥陀の真実の世界に向かわしめられる人生が めぐまれるのであります。  



※『真宗法語のこころ』 中西智海 師
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