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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第166回
人の
利鈍
(
りどん
)
というは
更新
2025年6月
『
人
(
ひと
)
の
利鈍
(
りどん
)
というは
志
(
こころざし
)
の
到
(
いた
)
らざる
時
(
とき
)
のことなり。』
【
正法眼蔵随聞記
(
しょうぼうげんぞうずいもんき
)
】
人間は、いつも死という爆弾を抱いて生活をしています。これは理屈ではなく、まぎれもない現実の姿です。
しかし、私どもは、この現実を直視することを、なるべく避けるようにつとめています。
つまり、ごまかしの中で生きのびようと、あくせくしているのです。
仏道の修行は、この現実と対決すること以外にはありません。
そこでは、人間の鋭利な知恵も、愚鈍な頭脳も、どちらもあまり役に立ちません。
極端なようですが、私の知恵の利鈍が問題となりますのは、現実離れの空論を論じ合うときだけのようです。
釈尊のお弟子に
周利槃特
(
しゅりはんどく
)
という人がいました。
この人は、俗にいいます愚者で、一句の経文すらもおぼえることが出来ませんでした。
彼は、釈尊に「私は愚かで、お経が覚えられません、どうすればいいのでしょうか」と申しました。
そこで釈尊は、彼に
箒
(
ほうき
)
を与えられて、 「
塵
(
ちり
)
を払い、
垢
(
あか
)
を除かん」ととなえながら、
掃除
(
そうじ
)
をするように教えられました。
それからは、開けても暮れても、この文句をつぶやきながら、清掃にはげむ彼の姿が見られました。
とうとう彼は
身
(
み
)
をもって、その
文句
(
もんく
)
の意味を悟ることができました。
まさに
愚者
(
ぐしゃ
)
でありました彼が、
立派
(
りっぱ
)
な
仏道実践者
(
ぶつどうじっせんしゃ
)
になったということです。
愚者
(
ぐしゃ
)
が、自分の
愚
(
おろ
)
かさに気づいたときは、すでに
愚者
(
ぐしゃ
)
ではありません。
利鈍
(
りどん
)
という執着を離れたところにこそ、求道者の
真摯
(
しんし
)
な姿が見られます。
「自分は鈍だから」などと言いわけをしているのは、じつははなはだ横着なのだと思います。
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