☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第158回 共に是れ凡夫のみ更新 2024年10月
          
 『こころの忿いかりを絶ち
  おもてのいかりを捨て、
  人のたがふを怒らざれ、
  人皆心有り、心各執れること有り、
  彼れ よしむずれば すなわち我れは あしみす、
  我れ是むずれば則ち彼れは非みす、
  我れ必ずしも聖に非ず、彼れ必ずしも愚に非ず、
  共に是れ凡夫のみ。』
 
 【聖徳太子十七条憲法しょうとくたいしじゅうしちじょうけんぽう】 

 人間愛は、何にもまして人の世に望ましいものです。人間愛が身をもって感じ取られるような社会こそ、望ましい社会でしょう。 
 私たちの生きている現実社会はどうでしょうか。
 人はそれぞれ自分勝手な裁きをすることで毎日を過ごしています。
 そこには相手を理解しようとする努力はほとんど見られません。
 理解への努力がなおざりにされたら、寛容はどこにも生まれてこないでしょう。
 理解と寛容があってこそ、そこに愛が生れるのです。
 他人の悲しみを自らの悲しみとし、他人の喜びを自らの喜びとしてこそ、人はお互いに暖かい人間愛で結ばれていくのです。
 他人の考えや行いが、自分に気に入らないからといって、自分自身の考えをもとにして他人を裁くならば、そこには、 自分自身を正義とみなす傲慢さが姿を現し、愛はあとかたもなく消え去ります。
 そして、そこには、荒涼とした世の相だけが存在し、争いだけがそのきばをむくことになりましょう。
 もし、少数の人間の考えが正義とされたらどうでしょう。
 そのような正義は多数の人を破滅へ追い込む死の暴力と化す恐れが、 多分にあるといわねばなりません。
 私たちは、あまりにも多く、その事実を、歴史の中に見せつけられてきました。
 戦争に追い込んだ日本の軍部や、ヒットラーのナチ独裁など、どれほど正義の名のもとに無数の人命を死の暴力の犠牲としたことでしょうか。
 罪なきユダヤの人びとは、いとも無造作に葬り去られたではありませんか。
 人間愛こそが、社会正義そのものであらねばなりません。
 人間愛は、自分自身の勝手な裁きをやめることから生まれて来ます。
 「我必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず」
 「ともに凡夫のみ」、このことさえ忘れなければ、どれだけ世の中は平和になることでしょう。    



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