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法 話
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【 私の如是我聞 】
第157回
もれなく救うために
更新
2024年9月
『
一切衆生
(
いっさいしゅじょう
)
をして
無上大般涅槃経
(
むじょうだいはつねはん
)
にいたらしめたまふ
大慈大悲
(
だいじたいひ
)
のちかひの
御
(
み
)
ななり』
【
唯信鈔文意
(
ゆいしんしょうもんい
)
】
私たちは、「親」のどこをおさえて「親」と言うのでしょうか。
親の頭をさして親と言うのでしょうか。あるいは親の手をさし、足をさして親と言うのでしょうか。
そうではありません。
親ごころ・親の願いをはなれて親はありえないと言うべきでありましょう。
同じように、み仏の心、すなわち仏の願いをはなれて仏はありえないのであります。
私たちは先立った親の頭や手足をさわることはできなくても「親ごころ」を思うとき、そこには親は厳然としてましますのであります。
いま、私たちは仏体を観ずることができなくても、仏の心を聞信する道にめぐり
遇
(
あ
)
うことができたのであります。
それは、仏のこころをめぐまれ、仏の願いをいただく道でありました。
「仏心というは大慈悲これなり」であり、大慈大悲のほかに何を探し求めてゆく必要があるのでしょうか。
「大慈大悲のほかに仏はなし」というべきであります。
その大慈大悲の仏心とは、あらゆるもの-老少善悪の人はもとより、動物・植物、そして自然をふくめて-にかけられている願いであります。
あらゆるものをわけへだてなく、平等にしかもこの上ないさとりに至らしめなかったならば、如来は如来としての存在の意味はないとはたらき通しの大慈大悲の願いなのであります。
あらゆるものをこの上ない真実のさとりにいたらしめるために「やすくたもち、となえやすき」名号を案じ出だしたもうたのであります。
ですから「やすく」たもち、となえ「やすき」といわれる「やすく」「やすき」というこころは、安易な、やすっぽいなどという意味とはまさに
雲泥
(
うんでい
)
の差がある言葉だと言わねばなりません。
やすくたもち、となえやすきものに成し
遂
(
と
)
げねばならなかったのは、あらゆるものをへだてなく、しかも最上の真実のさとりに 至らしめねばならなかったからなのであります。
つまり、「易行」とは もれなくすくうために成就されたもっとも、つづまったはたらきのすがたであると味わうべきでありましょう。
思えば阿弥陀如来とは無量光-いつでも、無辺光-どこでも、無碍光【むげこう】-だれにでも、はたらき通しであり、しかも自分と同じ仏にならせなかったならば、われは阿弥陀ではないと 誓われた通りの「ちかひのみな」となりきってくだされたのであります。
ここにもまた、極善最上の法が極悪底下の凡夫に回向される、み教えと如来のはたらきの広大なことをしみじみと味わわせていただくのであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海 師
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