《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第96回 |
第十八条 仏法の方に
| 更新 |
2019年8月 |
寺や僧侶などに
布施をして
寄進する
金品が多いか少ないかにより、大きな仏ともなり、あるいは小さな仏ともなるということについて。
このことは、
言語道断、とんでもないことであり、
筋の通らない話です。
まず、仏のお体に対して、大きいとか小さいとかを決めることなど、あってはならないことでしょう。
経典に
阿弥陀仏のお体の大きさが説かれてはいますが、それは
方便として示された
仮の姿です。
真実の さとりを開いて、長いとか短いとか、四角いとか円いとかの形を超え、
また
青・
黄・
赤・
白・
黒などの色を離れた仏の身となるのなら、どうして大きいとか小さいとかを決めることができるのでしょうか。
念仏すると、仏の姿を見させていただくことがあるそうです。
そのことは
経典に、
「大きな声で念仏すれば 大きな仏を見、小さな声で念仏すれば 小さな仏を見る」とあるのですが、あるいは この説などに こじつけて、
大きな仏や小さな仏になる などというのでしょうか。
一方、その
寄進は、仏になるための
布施の
行ともいえるのですが、どれほど
財宝を
仏前にささげ、
師に
施したとしても、
本願を信じる心が欠けていたなら、なんの意味もありません。
寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙や ほんの わずかな
金銭を
寄進することすらなくても、本願のはたらきに すべて おまかせして、深い信心をいただくなら、
それこそ本願の おこころに かなうことでありましょう。
結局、
世俗的な欲望もあるために、仏の教えに かこつけて このようなことをいい、
同じ念仏する仲間を おどされるのでしょうか。
※『大きな字の歎異抄』
解説 梯圓
本願寺出版社 定価:\750(本体\750+税)
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