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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第94回
第十六条
信心
(
しんじん
)
の
行者
(
ぎょうじゃ
)
自然に はらをもたて
更新
2019年6月
本願
(
ほんがん
)
を信じて念仏する人は、おのずと、ふとしたことで腹を立てたり、 悪いことをしたり、同じ念仏の仲間と
口論
(
こうろん
)
をしたりしたなら、必ずそのたびに悪い心をあらためなければならないということについて。
このことは、悪を
断
(
た
)
ち切り、善を
修
(
おさ
)
めて浄土に
往生
(
おうじょう
)
しようという考えなのでしょうか。
本願
(
ほんがん
)
を信じて ひとすじに念仏する人にとって、心をあらためるということは、 ただ一度だけあるものです。
それは、つねひごろ
本願他力
(
ほんがんたりき
)
の真実の教えを知らないで
過
(
す
)
ごしている人が、
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
智慧
(
ちえ
)
をいただき、これまでのような心のままでは 浄土に往生することはできないと知って、その自力の心を捨てて本願のはたらきに おまかせすることであり、これを 「心をあらためる」というのです。
あらゆることにつけて朝夕に悪い心をあらためてこそ往生することができる というのであれば、人の命は息を吐いて ふたたび吸う間もないうちに 終わるものですから、心をあらためることもなく、安らかで落ちついた思いになる前に命が終わってしまったら、すべての人々を
摂
(
おさ
)
め取って決して捨てないという
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
誓願
(
せいがん
)
は意味のないことになるのでしょうか。
口では本願のはたらきに おまかせいたしますといいながら、心の中では、悪人を救おうという本願がどれほど
不可思議
(
ふかしぎ
)
なものであるといっても、やはり善人だけをお救いになるのだろうと思うから、 本願のはたらきにを疑い、他力に おまかせする心が欠けて、
辺地
(
へんじ
)
といわれる
方便
(
ほうべん
)
の浄土に往生することになってしまうのです。
これこそ、もっとも悲しくお思いになるべきことです。
信心
(
しんじん
)
が定まったなら、浄土には
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の おはからいによって往生させていただくのですから、 わたしの はからいによるはずがないのです。
自分がどれほど悪くても、かえってますます本願の はたらきの尊さを思わせていただくなら、その本願の はたらきを受けておのずと、 安らかで落ちついた心もおこるでしょう。
浄土への往生については、何ごとにも こざかしい考えを はさまずに、ただほれぼれと、
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の ご恩が深く重いことを いつも思わせていただくのがよいでしょう。
そうすれば念仏も口をついて出てまいります。
これが、「おのずとそうなる」ということです。
自分のはからいを まじえないことを、「おのずとそうなる」というのです。
これは すなわち
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の本願の はたらきなのです。
それなのに、おのずとそうなる ということが、この本願の はたらきの
他
(
ほか
)
にもあるかのように、
物知
(
ものし
)
り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、 実に
歎
(
なげ
)
かわしいことです。
※『大きな字の
歎異抄
(
たんにしょう
)
』
解説
梯圓
(
かけはしじつえん
)
本願寺出版社 定価:\750(本体\750+税)
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今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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