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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第92回
第十四条
一念
(
いちねん
)
に
八十億劫
(
はちじゅうおくこう
)
の
重罪
(
じゅうざい
)
を
滅
(
めっ
)
すと
信
(
しん
)
すべしといふこと
更新
2019年4月
一回
念仏
(
ねんぶつ
)
することで
八十億劫
(
はちじゅうおくこう
)
の間
迷
(
まよ
)
いの世界で苦しみ続けるほど
重
(
おも
)
い
罪
(
つみ
)
が消えると信じなければならないということについて。
このことは、
十悪
(
じゅうあく
)
や
五逆
(
ごぎゃく
)
などの重い
罪
(
つみ
)
を
犯
(
おか
)
し、日ごろは念仏したことがない人であっても、まさに命を
終
(
お
)
えようとするときに、はじめて
善知識
(
ぜんぢしき
)
の教えを受け、一回念仏すれば八十億劫の間苦しみ続けるほどの重い罪が消え、 十回念仏すればその十倍もの思い罪が消え去って、
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
することができるといっているのです。
これは、
十悪
(
じゅうあく
)
や
五逆
(
ごぎゃく
)
の
罪
(
つみ
)
がどれほど重いものであるかを知らせるために、一回の念仏や十回の念仏といっていると思われますが、 要するに念仏することによって
罪
(
つみ
)
を消し去る
利益
(
りやく
)
が
得
(
え
)
られるというのです。
しかしそれは、わたしどもが信じるところには遠く及びません。
それは次のようなことによるのです。
私どもは
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
光明
(
こうみょう
)
に照らされて、
本願
(
ほんがん
)
を信じる心がはじめておこるときに決してこわれることのない
信心
(
しんじん
)
をいただくのですから、そのときすでに
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
はこの
身
(
み
)
を
正定聚
(
しょうじょうじゅ
)
の
位
(
くらい
)
につかせてくださるのであり、この世の命を
終
(
お
)
えれば、さまざまな
煩悩
(
ぼんのう
)
や
罪悪
(
ざいあく
)
を
転
(
てん
)
じて
真実
(
しんじつ
)
のさとりを
開
(
ひら
)
かせてくださるのです。
もし、この
大
(
おお
)
いなる
慈悲
(
じひ
)
の
心
(
こころ
)
からおこしてくださった
本願
(
ほんがん
)
がなかったなら、 わたしどものようなあきれるほど
罪深
(
つみぶか
)
いものがどうして
迷
(
まよ
)
いの世界を
離
(
はな
)
れることができるだろうかと考えて、
一生
(
いっしょう
)
のうちに
称
(
とな
)
える
念仏
(
ねんぶつ
)
は、すべてみな
如来
(
によらい
)
の
大
(
おお
)
いなる
慈悲
(
じひ
)
の心に対し、そのご
恩
(
おん
)
に
報
(
むく
)
い、そのお徳に感謝するものであると思わなければなりません。
念仏
(
ねんぶつ
)
するたびに自分の
罪
(
つみ
)
が消え去ると信じるのは、それこそ自分の力で罪を消し去って
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
しようと努めることに
他
(
ほか
)
なりません。
もしそうだとすれば、一生の間に心に思うことは、すべてみな自分を
迷
(
まよ
)
いの世界につなぎとめるものでしかないのですから、命の
尽
(
つ
)
きるまでおこたることなく念仏し続けて、はじめて
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
することになります。
ただし過去の世の行いの
縁
(
えん
)
により、 思い通りに生きられるものではないのですから、どのような思いがけない出来事にあうかもしれないし、また病気に悩まされて
苦痛
(
くつう
)
に
責
(
せ
)
められて、心安らかになれないまま命を終えることもあるでしょう。
そのときには念仏することができません。その間につくる罪はどのようにして消し去ることができるのでしょうか。
罪
(
つみ
)
は消え去らないのだから浄土に往生することはできないというのでしょうか。
すべての
衆生
(
しゅじょう
)
を光明の中に
摂
(
おさ
)
め
取
(
と
)
って決して
捨
(
す
)
てないという
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
本願
(
ほんがん
)
を信じておまかせすれば、どのような思いがけないことがあって、
罪深
(
つみぶか
)
い
行
(
おこな
)
いをし、念仏することなく命が終わろうとも
速
(
すみ
)
やかに浄土に往生することができるのです。
また命が終わろうとするときに念仏することができるとしても、それはさとりを開くまさにその時が近づくにつれて、いよいよ
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
にすべてをおまかせし、そのご
恩
(
おん
)
に
報
(
むく
)
いる念仏なのでありましょう。
念仏して罪を消し去ろうと思うのは、
自力
(
じりき
)
にとらわれた心であり、命が終わろうとするときに
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
を
念
(
ねん
)
じて心が
乱
(
みだ
)
れることなく
往生
(
おうじょう
)
しようと願う人の
本意
(
ほんい
)
なのですから、それは
本願他力
(
ほんがんたりき
)
の
信心
(
しんじん
)
がないということなのです。
※『大きな字の
歎異抄
(
たんにしょう
)
』
解説
梯圓
(
かけはしじつえん
)
本願寺出版社 定価:\750(本体\750+税)
電話 075-371-4171
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西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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