《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

  
第91回 第十三条 弥陀みだの本願不思議におはしませばとて 更新 2019年3月

 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんのはたらきが 不可思議ふかしぎであるからといって、 自分じぶんおかあくおそれないのは、すなわち、 「本願ほんがんぼこり」であって、これもまた 浄土じょうど往生おうじょうすることができないということについて。
 このことは、 本願ほんがんうたがうことであり、また、この世における ぜんあくもすべて 過去かこにおける おこないによると 心得こころえていないことなのです。
こころがおこるのも、 過去かこおこないがそうさせるからです。
わるいことを かんがえ、それをしてしまうのも、 過去かこわるおこないがはたらきかけるからです。
いま親鸞聖人しんらんしょうにんは、「うさぎや ひつじさきについた ちりほどの ちいさな つみであっても、 過去かこにおける おこないによらないものはないと るべきである」と おおせになりました。
 またあるとき 聖人しょうにんが、 「唯円房ゆいえんぼうはわたしのいうことを しんじるか」と おおせになりました。
そこで「はい、 しんじます」と もうしあげると、「それでは、わたしがいうことに そむかないか」と、 かさねて おおせになったので、つつしんでお けすることを もうしあげました。
すると 聖人しょうにんは、 「まず、 ひと千人殺せんにんころしてくれないか。そうすれば 往生おうじょうはたしかなものになるだろう」と おおせになったのです。
そのとき、「 聖人しょうにんおおせではありますが、わたしのようなものには 一人ひとりとして ころすことなどできるとは おもえません」と もうしあげたところ、「それでは、どうしてこの 親鸞しんらんのいうことに そむかないなどといったのか」と おおせになりました。
つづけて、「これでわかるであろう。どんなことでも 自分じぶんおもどおりになるのなら、 浄土じょうど往生おうじょうするために 千人せんにんひところせとわたしがいったときには、すぐに ころすことができるはずだ。
けれども、 おもどおりに ころすことのできる えんがないから、 一人ひとりころさないだけなのである。
自分じぶんこころいから ころさないわけではない。また、 ころすつもりがなくても、 百人ひゃくにんあるいは 千人せんにんひところすこともあるだろ」と おおせになったのです。
このことはわたしどもが、 自分じぶんこころいのは 往生おうじょうのためによいことであり、 自分じぶんこころわるいのは 往生おうじょうのために わるいことであると 勝手かってかんえ、 本願ほんがん不可思議ふかしぎなはたらきによってお すくいいただくということを らないでいることについて、 おおせになったのであります。
 かつて あやまった かんがえにとらわれた ひとがいて、 あくおかしたものをお救いくださるという 本願ほんがんであるからと、わざわざ悪を犯し、それを 往生おうじょうのための行いとしなくてはならないなどといい、しだいにそのよくないうわさが 聞こえてきました。
そのとき 聖人しょうにんがお手紙に、 「いくら薬があるからといって、好きこのんで毒を飲むものではない」とお書きになられましたのは、そのような あやまった考えにとらわれているのをやめさせるためなのです。
決して悪を犯すことが往生のさまたげになるというのではありません。

  「戒律かいりつを守って悪い行いをしない人だけが 本願ほんがんを信じることができるのなら、 わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか」と、 聖人しょうにんは仰せになっています。
このようなつまらないものであっても、 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんに出会わせていただいてこそ、本当にその 本願ほんがんをほこり甘えることができるのです。
だからといって、まさか自分に えんのない悪い行いをすることなどできないでしょう。
 また 聖人しょうにんは、「海や河で あみを引き、 りをして暮らしを立てる人も、野や山で けものり、 とりとらえて生活する人も、商売をし、 田畑たばたたがやして 日々ひびを送る人も、すべての人はみな同じことだ」と おおせになり、そして、「人はだれでも、しかるべき えんがはたらけば、どのような行いもするものである」と おおせになったのです。
 それなのにこのごろは、いかにも 来世らいせ往生おうじょうを願うもののように 殊勝しゅしょう振舞ふるまって、善人だけが念仏することができるかのように思い、あるときは念仏の道場に 張紙はりがみをして、 これこれのことをしたものを道場に入れてはならないなどという人がいますが、それこそ、 そとにはただ かしこそうに善い行いに はげ姿すがたを見せ、 うちには うそいつわりの こころをいだいていることなのではないでしょうか。
  阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんをほこり、それに甘えてつくる つみも、過去の世の行いが えんとなってはたらくことによるのです。
だから、善い行いも悪い行いもすべて過去の世からの縁にまかせ、ただ本願のはたらきに身をゆだねるからこそ、他力なのであります。
唯信鈔ゆいしんしょう」にも、 「阿弥陀仏あみだぶつにどれほどの力がおありになると知った上で、自分は 罪深つみぶかい身であるから、とても すくわれないなどと思うのであろうか」と しめされています。
本願ほんがんをほこる心があるからこそ、他力に身をゆだねる自分の信心もまさに定まっていると思われます。
 自分の 罪悪ざいあく煩悩ぼんのうめっくした あと本願ほんがんしんじるというのであれば、 本願ほんがんをほこる思いもなくてよいでしょう。
しかし、 煩悩ぼんのうめっしたならそのまま ほとけになるのであり、そのようにすでに仏になったものには、 五劫ごこうという長い間思いをめぐらしてたてられた 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんも、もはや意味のないものでありましょう。
  本願ほんがんぼこりをよくないといましめる方々も、 煩悩ぼんのうを身にそなえ、清らかでないように見受けられます。
それは本願をほこり甘えておられることにはならないのでしょうか。
どのような悪を本願ぼこりであるといい、どのような悪を本願ぼこりではないというのでしょうか。
本願ぼこりはよくないというのは、むしろ考えがおさないのではないでしょうか。



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