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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第90回
第十二条
経釈
(
きょうしゃく
)
をよみ学せざるともがら
更新
2019年2月
経典
(
きょうてん
)
や
祖師
(
そし
)
がたの書かれたものを読んだり学んだりすることのない人びとは、
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
できるかどうかわからないということについて。
このことは、
論
(
ろん
)
じるまでもない
誤
(
あやま
)
った
考
(
かんが
)
えといわなければなりません。
本願他力
(
ほんがんたりき
)
の
真実
(
しんじつ
)
の教えを
説
(
と
)
き
明
(
あ
)
かされている
聖教
(
しょうぎょう
)
にはすべて、
本願
(
ほんがん
)
を
信
(
しん
)
じて
念仏
(
ねんぶつ
)
すれば
仏
(
ほとけ
)
になるということが
示
(
しめ
)
されています。
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
するために、この
他
(
ほか
)
にどのような
学問
(
がくもん
)
が
必要
(
ひつよう
)
だというのでしょうか。
本当
(
ほんとう
)
に、このことがわからないで
迷
(
まよ
)
っている
人
(
ひと
)
は、どのようにしてでも
学問
(
がくもん
)
をして、
本願
(
ほんがん
)
のおこころを
知
(
し
)
るべきです。
経典
(
きょうてん
)
や
祖師
(
そし
)
がたの書かれたものを読んで学ぶにしても、その
聖教
(
しょうぎょう
)
の
本意
(
ほんい
)
がわからないのでは、何とも気の毒なことです。
文字
(
もじ
)
一
(
ひと
)
つも
知
(
し
)
らず、
経典
(
きょうてん
)
などの
筋道
(
すじみち
)
もわからない人々が、
容易
(
ようい
)
に
称
(
とな
)
えることができるように
成就
(
じょうじゅ
)
された
名号
(
みょうごう
)
ですから、
念仏
(
ねんぶつ
)
を
易行
(
いぎょう
)
というのです。
学問
(
がくもん
)
を
主
(
しゅ
)
とするのは
聖道門
(
しょうどうもん
)
であり、
難行
(
なんぎょう
)
といいます。
学問
(
がくもん
)
をしても、それによって
名誉
(
めいよ
)
や
利益
(
りえき
)
を
得
(
え
)
ようという
誤
(
あやま
)
った
思
(
おも
)
いをいだく
人
(
ひと
)
は、この世の
命
(
いのち
)
を終えて
浄土
(
じょうど
)
に
往生
(
おうじょう
)
することができるかどうか疑わしいことの
証拠
(
しょうこ
)
となる
文
(
もん
)
もあるはずです。
このごろは、
念仏
(
ねんぶつ
)
の
道
(
みち
)
を歩む人々と
聖道門
(
しょうどうもん
)
の人々が、お互いの
教義
(
きょうぎ
)
についてことさらに
議論
(
ぎろん
)
し、「わたしの
信
(
しん
)
じる
教
(
おし
)
えこそがすぐれていて、
他
(
ほか
)
の
人
(
ひと
)
が
信
(
しん
)
じている
教
(
おし
)
えは
劣
(
おと
)
っている」などというために、
仏
(
ほとけ
)
の
教
(
おし
)
えに
敵対
(
てきたい
)
する
人
(
ひと
)
も
出
(
で
)
てくるし、それを
謗
(
そし
)
るというようなこともおこるのです。
このようなことはそのまま、
自分
(
じぶん
)
の
信
(
しん
)
じる
仏
(
ほとけ
)
の
教
(
おし
)
えを
謗
(
そし
)
り、
滅
(
ほろ
)
ぼすことになってしまうのではないでしょうか。
たとえ
他
(
ほか
)
のさまざまな
宗派
(
しゅうは
)
の人々が
口
(
くち
)
をそろえて、「
念仏
(
ねんぶつ
)
は
力
(
ちから
)
のない
人
(
ひと
)
のためのものであり、その
教
(
おし
)
えは
浅
(
あさ
)
くつまらない」といっても、
少
(
すこ
)
しもいい
争
(
あらそ
)
うことなく、「わたしどものように
自
(
みずか
)
らさとる
力
(
ちから
)
もなく
愚
(
おろ
)
かであり、
文字
(
もじ
)
一
(
ひと
)
つも
知
(
し
)
らないものでも、
本願
(
ほんがん
)
を
信
(
しん
)
じるだけで
救
(
すく
)
われるということを、お
聞
(
き
)
かせいただいて
信
(
しん
)
じておりますので、
能力
(
のうりょく
)
のすぐれている人々にはまったくつまらないものであっても、わたしどもにとってはこの
上
(
うえ
)
ない
教
(
おし
)
えなのです。
たとえ
他
(
ほか
)
の
教
(
おし
)
えがすぐれていても、わたしにとっては
力
(
ちから
)
が
及
(
およ
)
ばないので
修行
(
しゅぎょう
)
することができません。
だれもがみな
迷
(
まよ
)
いの
世界
(
せかい
)
を
離
(
はな
)
れることこそ、
仏
(
ほとけ
)
がたのおこころでありますから、わたしが
念仏
(
ねんぶつ
)
するのをさまたげないでください」といって、
気
(
き
)
にさわる
態度
(
たいど
)
をとらなければ、いったいだれが
念仏
(
ねんぶつ
)
のさまたげなどするでしょう。
さらにまた、いい
争
(
あらそ
)
いをすれば、そこにはさまざまな
煩悩
(
ぼんのう
)
がおきるものであり、
智慧
(
ちえ
)
ある
人
(
ひと
)
はそのような
場
(
ば
)
から
遠
(
とお
)
く
離
(
はな
)
れるべきであるということの
証拠
(
しょうこ
)
となるような
文
(
もん
)
もあるのです。
今
(
いま
)
は
亡
(
な
)
き
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、「この
念仏
(
ねんぶつ
)
の
教
(
おし
)
えを
信
(
しん
)
じる
人
(
ひと
)
もいれば、
謗
(
そし
)
る
人
(
ひと
)
もいるだろうと、すでに
釈尊
(
しゃくそん
)
がお
説
(
と
)
きになっています。
わたしは
現
(
げん
)
に
信
(
しん
)
じておりますし、
一方
(
いっぽう
)
、
他
(
ほか
)
の
人
(
ひと
)
が
謗
(
そし
)
ることもありますので、
釈尊
(
しゃくそん
)
のお
言葉
(
ことば
)
はまことであったと
知
(
し
)
られます。
だからこそ、
往生
(
おうじょう
)
はますます
間違
(
まちが
)
いないと
思
(
おも
)
うのです。
もしも
念仏
(
ねんぶつ
)
の
教
(
おし
)
えを
謗
(
そし
)
る
人
(
ひと
)
がいなかったら、
信
(
しん
)
じる
人
(
ひと
)
はいるのに、どうして
謗
(
そし
)
る
人
(
ひと
)
はいないのだろうかと
思
(
おも
)
ってしまうに
違
(
ちが
)
いありません。
しかし、このように
申
(
もう
)
したからといって、
必
(
かなら
)
ず
人
(
ひと
)
に
謗
(
そし
)
られようというのではありません。
釈尊
(
しゃくそん
)
は、
信
(
しん
)
じる
人
(
ひと
)
と
謗
(
そし
)
る
人
(
ひと
)
とがどちらもいるはずだとあらかじめ
知
(
し
)
っておいでになり、
信
(
しん
)
じる
人
(
ひと
)
が
疑
(
うたが
)
いを
持
(
も
)
たないようにとお
考
(
かんが
)
えになって、すでにそれをお
説
(
と
)
きになっているということを
申
(
もう
)
しているのです」と
仰
(
おお
)
せになりました。
このごろは、
学問
(
がくもん
)
して
他
(
ほか
)
の
人
(
ひと
)
が
謗
(
そし
)
るのをやめさせて、
議論
(
ぎろん
)
し
問答
(
もんどう
)
することこそ
大切
(
たいせつ
)
だと
心
(
こころ
)
がけておられるのでしょうか。
学問
(
がくもん
)
をするのであれば、ますます
深
(
ふか
)
く
如来
(
にょらい
)
のおこころを
知
(
し
)
り、
本願
(
ほんがん
)
の
広大
(
こうだい
)
な
慈悲
(
じひ
)
のおこころを
知
(
し
)
って、
自分
(
じぶん
)
のようなつまらないものは
往生
(
おうじょう
)
できないのではないかと
心配
(
しんぱい
)
している
人
(
ひと
)
にも、
本願
(
ほんがん
)
においては、
善人
(
ぜんにん
)
か
悪人
(
あくにん
)
か、
心
(
こころ
)
が
清
(
きよ
)
らかであるかないかといったわけへだてがないということを
説
(
と
)
き
聞
(
き
)
かせてこそ、
学問
(
がくもん
)
をするものとしての
値
(
ね
)
うちもあるのでしょう。
それなのに、たまたま何のはからいもなく
本願
(
ほんがん
)
のおこころにかなって
念仏
(
ねんぶつ
)
する
人
(
ひと
)
に、
経典
(
きょうてん
)
などを
学
(
まな
)
んでこそ
往生
(
おうじょう
)
することができるなどといっておどすのは、
教
(
おし
)
えをさまたげる
悪魔
(
あくま
)
や、
仏
(
ほとけ
)
に
敵対
(
てきたい
)
するもののすることです。
自分自身
(
じぶんじしん
)
に
他力
(
たりき
)
の
信心
(
しんじん
)
が
欠
(
か
)
けているだけでなく、
誤
(
あやま
)
って
他
(
ほか
)
の
人
(
ひと
)
をも
迷
(
まよ
)
わそうとしているのです。
つつしんで
恐
(
おそ
)
れるべきです。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
のおこころに
背
(
そむ
)
くことを。
あわせて
悲
(
かな
)
しむべきです。
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
本願
(
ほんがん
)
おこころにかなっていないことを。
※『大きな字の
歎異抄
(
たんにしょう
)
』
解説
梯圓
(
かけはしじつえん
)
本願寺出版社 定価:\750(本体\750+税)
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西本願寺の本
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今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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