《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第89回 |
第十一条 一文不通のともがらの
| 更新 |
2019年1月 |
文字
一つも
知らずに
念仏している
人に
向かって、「おまえは
阿弥陀仏の
誓願の
不可思議なはたらきを
信じて
念仏しているのか、それとも、
名号の
不可思議なはたらきを
信じて
念仏しているのか」といって
相手をおどかし、この
二つの
不可思議について、その
詳しい
内容をはっきりと
説き
明かすこともなく、
相手の
心を
迷わせるということについて。
このことは、よくよく
気をつけて
考えなければなりません。
阿弥陀仏は、
誓願の
不可思議なはたらきにより、たもちやすく
称えやすい
南無阿弥陀仏の
名号を
考え
出してくださり、この
名号を
称えるものを
浄土に
迎えとろうと
約束されているのです。
だから、まず
一つには、
大いなる
慈悲の
心でおこされた
誓願の
不可思議なはたらきに お
救いいただいて、この
迷いの
世界を
離れることができると
信じ、
念仏を
称えるのも
阿弥陀仏のおはからいであることを
思うと、そこにはまったく
自分のはからいがまじらないのですから、そのまま
本願にかなって、
真実の
浄土に
往生するのです。
これは、
誓願の
不可思議なはたらきをひとすじに
信じれば、
名号の
不可思議なはたらきもそこにそなわっているのであり、
誓願と
名号の
不可思議なはたらきは
一つであって、
決して
異なったものではないということです。
次に、
自分の
勝手なはからいから、
善と
悪について、
善が
往生の
助けとなり、
悪が
往生のさまたげとなると
区別して
考えるのは、
誓願の
不可思議なはたらきを
信じないで、
自分のはからいで
浄土に
往生しようと
努め、
称える
念仏をも
自分の
力でする
行とみなしてしまうことです。
このような
人は、
名号の
不可思議なはたらきも
信じていないのです。
しかし、
信じてはいないけれども、
念仏すれば
辺地・
懈慢界・
疑城胎宮などといわれる
方便の
浄土に
往生して、
果遂の
願により、ついには
真実の
浄土に
生まれることができます。
それは
名号の
不可思議なはたらきなのです。
このことはそのまま
誓願の
不可思議なはたらきによるのですから、この
二つはまったく
一つのものなのです。
※『大きな字の歎異抄』
解説 梯圓
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