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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第165回
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋
更新
2025年5月
(36) 自力の称念
真実信心の称名は、弥陀廻向の法なれば、不廻向と名づけてぞ、自力の称念きらはるるといふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふたやありがたやと 念仏まうすこころも、みなあたへたまふゆへに、とやせんかくやせんとはからふて、念仏申すは、自力なればきらふなりと、仰せさふらふなり。
【意訳】
「
真実信心
(
しんじつしんじん
)
の
称名
(
しょうみょう
)
は、
弥陀廻向
(
みだえこう
)
の法なれば、
不廻向
(
ふえこう
)
と名づけてぞ、 自力の
称念
(
しょうねん
)
きらはるる」とのべた 『
正像末和讃
(
しょうぞうまつわさん
)
』の
一首
(
いっしゅ
)
、この
和讃
(
わさん
)
の意味は、
弥陀如来
(
みだにょらい
)
の方から、たのむ信心も、たうとやありがたやとよろこんで念仏申す
憶念
(
おくねん
)
のこころも、すべてみなおあたえくださるのであるから、どうしようか、こうしようかとはかろうて念仏するのは、自力であるから 嫌われるのであると、蓮如上人は仰せられた。
【解説】
念仏は尊い
行法
(
ぎょうほう
)
である、その尊いわけは
他力廻向
(
たりきえこう
)
の行法であるからである。
これをあやまって自力廻向の行法として
歪曲
(
わいきょく
)
しては、念仏しながら念仏を見失うている、
不如実
(
ふにょじつ
)
の
行法
(
ぎょうほう
)
である。
自力の称念をきらうのは他力の称念をたたえるからである。
これは「自力の称念きらわるる」ということによって念仏に親しみを失わないように注意されてある。
自力はすてなくてはならない、けれども念仏に親しみを失うてはならない。
『
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋』
梅原真隆
(
うめはらしんりゅう
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
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本願寺出版社
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