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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第154回
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋
更新
2024年6月
(25) 御讃と御歌
十方無量の諸仏の、証誠護念のみことにて、自力の大菩提心の、かなわぬほどはしりぬべし。
御讃のこころを聴聞まうしたきと、順誓、まうしあげられけり。
仰に、諸仏の弥陀に帰せらるるを能としたまへり。
世のなかにあまのこころをすてよかし、妻うしのつのはさもあらばあれと、これは御開山の御うたなり。
されば、形は要らぬこと、一心を本とすべしとなり。
世にも、かうべをそるといへども、心をそらずといふことがあると、仰られ候。
【意訳】
「十方無量の諸仏の、証誠護念のみことにて、自力の大菩提心の、かなはぬほどはしりぬべし」とある 『
正像末和讃
(
しょうぞうまつわさん
)
』の一首のこころをおきかせにあずかりたいと法敬房順誓が申し上げた。
そのとき
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
の仰せに、 「諸仏が弥陀一仏に帰依するように、すすめることを能事としていらせられるのである。
十方にまします諸仏も、自力の
大菩提心
(
だいぼだいしん
)
では、とても成仏はむずかしいから、すみやかに自力をすてて
弥陀
(
みだ
)
の本願に帰せよ、弥陀の本願によって、すべては救われることを証誠し護念して 専ら
弥陀
(
みだ
)
に
帰依
(
きえ
)
するようにすすめられるのである。」と。
「世のなかに あまのこころをすてよかし 妻うしのつのは さもあらばあれ」と、 これは
御開山聖人
(
ごかいさんしょうにん
)
の御歌である。
この御歌の意味は、この濁りに濁った末の
世
(
よ
)
では家を捨て、欲を
棄
(
す
)
てて
殊勝
(
しゅしょう
)
らしく
尼
(
あま
)
になる心はすてたがよいとおもう。
まがった
妻牛
(
めうし
)
の角のように、あっても役に立たないから、 それはどうでもよろしい、生まれつきのまま救われるのだから
尼
(
あま
)
になる必要はなかろうというのである。
それであるから、うわべのすがたかたちは、どうでもかまわない。
ただ心のうちに一心すなわち信心を
本位
(
ほんい
)
とせねばならない。
世のなかにも、 「
頭
(
こうべ
)
を
剃
(
そ
)
れども、心を剃らずということがある」と
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
は仰せられた。
【解説】
この一条は二ヶ条を一連にしるしてある。
『空善記』などを対照してみると、世のなか云々の歌から以下は別の条になっている。
前条は
弥陀
(
みだ
)
と
諸仏
(
しょぶつ
)
との関係は
本末
(
ほんまつ
)
をなすもので、
諸仏
(
しょぶつ
)
は
本仏弥陀
(
ほんぶつみだ
)
の法を
証誠護念
(
しょうじょうごねん
)
することを
使命
(
しめい
)
としていられることを示して、 自力の成就しがたいことをあらわし、他力に
帰入
(
きにゅう
)
すべきことをさとられたのが、この 『
正像末和讃
(
しょうぞうまつわさん
)
』の一首の意味であると 味わわれたのである。
後条は
出家発心
(
しゅっけほっしん
)
の形式の無意味なことをさとし、宗教は 内心の信を
本位
(
ほんい
)
とすべきことを示されたのである。
※『
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋』
梅原真隆
(
うめはらしんりゅう
)
本願寺出版社
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