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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第143回
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋
更新
2023年7月
(13)
開山聖人
(
かいさんしょうにん
)
の
再誕
(
さいたん
)
明応三年十一月、報恩講の廿四日のあかつき、八時にをいて、聖人の御前、参拝まうして候に、すこし、ねぶりさふらふうちに、ゆめともうつつともわかず、空善おがみまうし候やうは、御厨子のうしろより わたをつみひろげたるやうなるうちより、上様あらはれ御出あるとおがみもうすところに、御相好、開山聖人にてぞおはします。
あら不思議やとおもひ、やがて御厨子のうちをおがみまうせば、聖人御座なし。
さては開山聖人、上様に現じましまして、御一流を御再誕にて御座候とまうしいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流儀、たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫のヤスリをすりて玉をなすがごとしと、 御式のうへを讃嘆あるとおぼえて、ゆめさめてさふらふ。
さては、開山聖人の御再誕と、それより信仰まうすことに候ひき。
【意訳】
明応三年十一月の報恩講のうち、二十四日の夜あけ前の八時ごろ、御堂でお
通夜
(
つや
)
をしておった
空善
(
くうぜん
)
が祖師聖人の
御影前
(
ごえいぜん
)
に
参拝
(
さんぱい
)
して少し眠ったとき、夢ともなく
現
(
うつつ
)
ともなく
拝
(
おが
)
んだところでは、祖師聖人の
御影
(
ごえい
)
の
御厨子
(
おずし
)
のうしろ即ち
後門
(
ごうもん
)
から綿をつみひろげたような中から、蓮如上人があらわれお出ましになったので、
拝
(
おが
)
んでいると、その
御相好
(
ごそうごう
)
はそのまま開山聖人であった。
あら不思議なことやと思うて
御厨子
(
おずし
)
の中を拝むと、そこには開山聖人の御影像はいらせられなかった。
さては開山聖人が真宗を御再誕あらせられる為に、蓮如上人と現われ出でられたのであると、
慶聞坊
(
きょうもんぼう
)
へ言おうと思うていると、慶聞坊が聖人の御流儀は時期相応である。
「たとえば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫のヤスリをすりて玉をなすがごとし」とある。
木も石も縁によっては火が出る。
瓦も礫(こいし)もヤスリですれば玉があらわれるように、何事も縁がなければ顕れないと 「
報恩講式
(
ほうおんこうしき
)
」をひいて末世の凡夫も聖人の御教化によって救われることを讃嘆されたと覚えて、空善は夢から醒めた。
それからというものは、蓮如上人は開山聖人の生まれかわりであると、仰いで信ずるようになったことである。
【解説】
蓮如上人が
常隋昵近
(
じょうずいじっきん
)
の弟子の空善から親鸞聖人の
再誕
(
さいたん
)
であると夢想されたことは、上人の品格のけだかさを反映するものである。
親鸞聖人の一流を
再興
(
さいこう
)
された蓮如上人は、そのまま親鸞聖人の再誕として仰がれた。
まことに、蓮如上人ほど如実に親鸞聖人の大道を顕示されたお方はないのである。
※『
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋』
梅原真隆
(
うめはらしんりゅう
)
本願寺出版社
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本願寺出版社
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