このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第131回
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋
更新
2022年7月
(一)元日の朝の
警策
(
けいさく
)
勧修寺村の道徳(人名)、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人おほせられさふらふ。
道徳はいくつつになるぞ、道徳念仏まうさるべし。
自力の念仏といふは、念仏おほくまうして仏にまいらせ、このまうしたる功徳ににて、仏のたすけ給はんずるやうにおもふてとなふるなり。
他力といふは、弥陀をたのむ一念おこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。
そののち、念仏まうすは、御たすけありたるありがたさ、ありがたさを思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなり。
されば他力とは他のちからといふこころなり。
この一念臨終までとほりて往生するなりと、おほせさふらふなり。
【意訳】
勧修寺村
(
かんしゅうじむら
)
の
道徳
(
どうとく
)
という人が、
明応
(
めいおう
)
二年の正月一日に、蓮如上人の
御前
(
ごぜん
)
へ
伺候
(
しこう
)
したところ、上人は仰せられた。
「道徳は
何歳
(
いくつ
)
になられたか。念仏申されよ。
その念仏についても、自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数おおくとなえて佛にふりむけ、その称名する功徳によって佛がたすけてくださるようにおもうてとなえるのである。
他力の念仏というのは、弥陀におまかせする一念の信心おこるとき、時をへだてず、
即座
(
そくざ
)
におたすけにあずかるのである。
そのうえ称える念仏は、おたすけにあずかったことを有難や有難やとよろこんで、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えて、
報謝
(
ほうしゃ
)
するばかりの念仏である。
こんなわけあるから、他力ということは佛の本願力ということであって、すこしも凡夫の自力のまじわらない意味である。
この
一念
(
いちねん
)
の信心が、
寿命
(
いのち
)
のおわるまでつらぬきとおるによって、往生させていただくのである」
と仰せられた。
【解説】 これは蓮如上人が年頭に参詣した門徒に対してのべられた元日の朝の
警策
(
けいさく
)
である。
慌
(
あわ
)
ただしく過ぎ去る
果敢
(
はか
)
ない人生に厳かな一大事をさとして、念仏を勧められたのである。
そして、世のなかに念仏するものは多いけれど、
如実
(
にょじつ
)
に念仏するものが
稀
(
まれ
)
なので、自力の念仏を退けて、他力の信心を決定して仏恩を
報謝
(
ほうしゃ
)
する念仏の味わいを適切にさとされたのである。
※『
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
新釋』
梅原真隆
(
うめはらしんりゅう
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
聖典講座に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。