《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第126回 女性のための正信偈しょうしんげ
源信和尚げしんかしょうの教え【1】」
更新 2022年2月

 29 源信和尚げんしょうかしょうの教え【1】
 

 「源信広開一代教げんしんこうかいいちだいきょう
【源信ひろく一代の教をひらきて】
 「偏帰安養勧一切へんきあんにょうかんいっさい
【ひとえに安養に帰して一切をすすむ】
 「専雑執心判浅深せんぞうしゅうしんはんせんじん
【専雑の執心浅深を判じて】
 「報化二土正弁立ほうけにどしょうべんりゅう
【報化二土まさしく弁立せり】
 源信和尚げんしょうかしょう(942~1017)は、奈良・二上山のふもと、 当麻たいまにお生まれになり、日本浄土教の夜明けともたとえられる 『往生要集おうじょうようしゅう』三巻を あらわしてくださった 比叡山ひえいざんの高僧であります。
 篤信とくしんの母に育てられ、七歳で父に死別した和尚は、天台宗の僧の すすめによって、天台宗の中興の祖といわれる 良源りょうげんの門下に入り、十三歳で 剃髪ていはつ 受式じゅしきされました。
 和尚が一番注意されたのは、 名利みょうりということです。
 『往生要集おうじょうようしゅう』の中にも、

 迷いの世界をのがれ出る最後のときになって うらみをなすものは、名利や利欲にまされものはない、とわかる。
   (石田瑞麿氏 意訳)
 
 と書かれています。
 これは、ある 法会ほうえの布施に頂いた贈り物を、 当麻たいまの母に送ったとき、年老いた母の「世俗の名誉や利欲をよろこぶ 学生がくしょうであるよりも、 多武峰とうのみねひじりのような人であってほしい」と贈り物と共に送り返されてきた手紙の心を、 七十六歳で亡くなるまで守り続けられたのです。
 多武峰とうのみねひじりとは、宮中の招きをさえ避けて、四十年、 多武峰とうのみねで修学された 増賀ぞうがという高僧のことです。
 著書としては、 『往生要集おうじょうようしゅう』が有名ですが、、、後に書かれた 『観心略要集かんじんりゃくようしゅう』や、晩年の
阿弥陀経略記あみだきょうりゃくき』も、私たち阿弥陀如来のみ教えを頂くものには大切なものです。
 それ以外にも数多くの著作があり、その数はおおよそ七十余部・百五十巻といわれています。
 源信和尚げんしんかしょうはご一生の間に、釈尊が説かれた 膨大ぼうだいな教え『大蔵経』(一切経)を五度まで身読され、「わたしのような 頑魯がんろの者(愚かなもの)が救われていく道は阿弥陀如来のみ教えしかない」と、安養(浄土)に 生れて悟りを開く浄土門の教えに、自ら一すじに帰順され、私たちにもひとえに、浄土の教えに帰入することをおすすめくださったのです。
 一切とは、「一切の衆生」または、「一切の道俗」(出家の人も在家の人も)というおすすめの対象と、頂くことができますが、私たちの先輩の中には、

 説いて  しこうして これすすめ、 いて しこうして これすすめる也。
  (『正信念仏偈捕影記』)
 
 と、あらゆる手段をもちいて、おすすめくださったと、よろこばれた方もあります。
 源信和尚げんしんかしょうが、すべての人々に、あらゆる手段をもちいてすすめてくださったのは、 「専修せんじゅの深い心」と、
雑修ざっしゅの浅い心」についてであります。
 「専修」とは、専ら阿弥陀如来の本願をよりどころに、お念仏一つを修することです。
 それは、あちらもこちらも、と 二股ふたまたをかけるようなあいまいな態度ではなく、ただ一心に阿弥陀如来を信じて、 露塵つゆちりほども、疑いがまじらない生き方です。
 それは、その時々の都合で、フラフラするようなことがない、しっかりしたものですから、「深い心」といわれます。
 雑修ざっしゅとは、阿弥陀如来を全面的に信じることができなくて、 あれも、これもと、自らの 小賢こざかしいはからいで修した諸行を付け加えて、浄土に生まれようとする生き方です。
 こういう生き方になるのは、阿弥陀如来をどこかで疑っているからです。
 全面的に阿弥陀如来にまかせることがないのですから、何かあると、あちらの方がいいのではないか、と迷い、こちらの方にしようか、とフラつきます。
 それは阿弥陀如来一仏に帰順する心を「深い心」というのに対して「浅い心」といわれます。
 「専修の深い心」こそ、私たちが阿弥陀如来の本願によってできあがった報土(真実の浄土)に生まれる たねであります。
 「雑修ざっしゅの浅い心」では、たとえ阿弥陀如来の世界に生まれても、自分の思いが強すぎて、 阿弥陀如来に うことができませんし、さとりを開くこともできません。
 それは、阿弥陀如来の世界といっても 報土ほうどではなく、阿弥陀如来が、いまだ明らかに如来の力を信じることのできないものさえ捨てることが できないと、仮に設けてくださった世界 (化土けど)に生まれるということです。
 源信和尚げんしんかしょうは、「専修の深い心」によって、報土に生まれることを ひとえにすすめてくださったのであります。 
 親鸞聖人しんらんしょうにんは、この 源信和尚げんしんかしょうのご指南をよろこばれ、和讃においては、
 
   霊山聴衆りょうぜんちょうじゅとおはしける
   源信僧都げんしんそうずのおしへには
   報化二土ほうけにどをおしへてぞ
   専雑せんぞう得失とくしつさだめたる
   ほう浄土じょうどの  往生おうじょう
   おほからずとぞあらはせる
   化土けどにむまるる衆生をば
   すくなからずとおしへたり
 
 と、うたわれています。  
 



※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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