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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第123回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
の教え【2】」
更新
2021年11月
26
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
の教え【2】
「
三不三信誨慇懃
(
さんぷさんしんけおんごん
)
」
【三不三信のおしえを慇懃にして】
「
像末法滅同悲引
(
ぞうまつほうめつどうひいん
)
」
【像末法滅おなじく悲引す】
「
一生造悪値弘誓
(
いっしょうぞうあくちぐぜい
)
」
【一生悪をつくれども弘誓に値(もうあ)いぬれば】
「
至安養界証妙果
(
しあんにょうがいしょうみょうか
)
」
【安養界にいたりて妙果を証せしむといへり】
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
は、
正しい信心の
相
(
すがた
)
をあらわす
三信
(
さんしん
)
と、そうでない信心の
相
(
すがた
)
をあらわす
三不信
(
さんぷしん
)
について、本当にていねいに教えてくてださいました。
三信
(
さんしん
)
・
三不信
(
さんぷしん
)
ということを、初めて私たちに教えてくださったのは、
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
ですが、
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
は師とあがめる
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
のお心をさらにねんごろに説いてくださったのです。
三信
(
さんしん
)
とは、
淳心
(
じゅんしん
)
・
一心
(
いっしん
)
・
相続心
(
そうぞくしん
)
のことであり、
三不信
(
さんぷしん
)
とは、
不淳心
(
ふじゅんしん
)
・
不一心
(
ふいっしん
)
・
不相続心
(
ふそうぞくしん
)
のことです。
淳心
(
じゅんしん
)
の
淳
(
じゅん
)
について、私たちの先輩は厚いという意味と、
朴
(
ぼく
)
という意味のあることを教えてくださいました。
厚
(
こう
)
とは
深厚
(
じんこう
)
ということで、右を見たり、左を見たり、なかなか人生の方向のさだまらない 私たちに、「私の方にまっすぐ歩いておいで、どんなことがあろうが、私が
護
(
まも
)
ってあげるから、なんの心配もいりませんよ」と呼びつづけてくださる南無阿弥陀仏のお心を 深く、そして厚くいただくことをいうのです。
曇鸞大師
(
どんらいだいし
)
は、私たちの信心が、
淳心
(
じゅんしん
)
でないとするならば、
若存若亡
(
にゃくぞんにゃくぼう
)
のためであると教えてくださっています。
親鸞聖人は、
若存若亡
(
にゃくぞんにゃくぼう
)
とは、
あるときはさともおもふ、あるときはかなふまじとおもふなり。
(『高僧和讃』の左訓)
ということであると、明らかにして下さっています。
すなわち、ある時は、「間違いなくお浄土に生まれることができる」とよろこび、ある時は、「こんなことではお浄土に生まれることができないのではないか」と 悲しむようなありさまが、
若存若亡
(
にゃくぞんにゃくぼう
)
ということです。
このように、私の心がゆらぐということは、結局、阿弥陀如来を信じていないからです。
「どんなことがあろうが、あなたを捨てることがない」といってくださる南無阿弥陀仏を疑っているからです。
ですから、深く厚くとは、どんなことがあっても、私を見捨てることのない阿弥陀如来がいてくださるということが、明らかになり、疑う心がなくなった ということです。
また、
朴
(
ぼく
)
とは、
質朴
(
しつぼく
)
ということで、私のよろこんだ心や、何かをやったということで、自らを飾りたてたり、 背のびしたりせず、ありのままの人間として、南無阿弥陀仏の呼び声に
順
(
したが
)
うことをいうのです。
一心
(
いっしん
)
について、親鸞聖人は、
信心、二心なきが故に一念と
曰
(
い
)
ふ。
是
(
こ
)
れを一心と名づく。
(『教行信証』信巻)
と教えてくださいます。
私たちが、この人生を生きるということは、
自
(
みずか
)
らの方向を選択しなければならない場面で、右ならば右、左なら左と決断することです。
決断できなければ分かれ道の前で、じっと立っているよりほか仕方がありません。
逆に言えば、前進するには、右か左か、どちらかを選ばなければなりません。
ですから、「右もいい」、「左もいい」という二つの心があるならば、じっと立っているよりほかはありません。
また、右の道を選びながら、「左の方がよかったかな」と、いつまでも
戸惑
(
とまど
)
っているようでは前進できません。
一つの心に於て、人は前進することができるのです。
南無阿弥陀仏の呼び声に随順して、ただ念仏の一道を生きる。
それは、目先のことしか見えない私が選んだ道ではなく、先の先まで見通してくださった如来さまが、選んでくださった道を、ただ一すじに生きる ということです。
それが一心であり、信心の正しいあり方です。
このことを教えてくださったのが、先の親鸞聖人のお言葉です。
相続心
(
そうぞくしん
)
とは、余念がまじらないことです。
余念とは、「南無阿弥陀仏一つで大丈夫だろうか」「他の仏さまにもたのんでおいた方がいいのではないか」「何か善根を積んだ方がいいのではないか」 というような思いです。
そのような思いがまじることなく、思い出す
度
(
たび
)
に、南無阿弥陀仏一つで往生に間違いないことをよろこばせていただく心が
相続心
(
そうぞくしん
)
です。
この、淳心・一心・相続心は、正しい信心の
相
(
すがた
)
です。
親鸞聖人は、この三信のかかわりを、
三信展転相成
(
さんさしんてんでんそうじょう
)
す
行者
(
ぎょうじゃ
)
こころをとどむべし
信心
(
しんじん
)
あつからざるゆへに
決定
(
けつじょう
)
の
信
(
しん
)
なかりけり
決定
(
けつじょう
)
の
信
(
しん
)
なきゆへに
念相続
(
ねんそうぞく
)
せざるなり
念相続
(
ねんそうぞく
)
せざるゆへ
決定
(
けつじょう
)
の
信
(
しん
)
をえざるなり
決定
(
けつじょう
)
の信をえざるゆへ
信心不淳
(
しんじんふじゅん
)
とのべたまふ
如実修行相応
(
にょじつしゅぎょうそうおう
)
は
信心ひとつにさだめたり
(『高僧和讃』)
と、うたわれています。
道綽禅師
(
どうしゃくぜんじ
)
がこの三信・三不信ということをねんごろに教えて下さったのは、 ひとえに
像法
(
ぞうほう
)
の時代の人も、末法の人も、そして、教えすらなくなってしまう
法滅
(
ほうめつ
)
の時代の人も、ひとしく
引導
(
いんどう
)
したいという慈悲の心からであります。
一生涯、悪しか行えないものであっても、阿弥陀如来の、
弘
(
ひろ
)
い弘い本願に
遇
(
あ
)
い、南無阿弥陀仏をよりどころに精一杯生きれば、間違いなく
安養界
(
あんにょうかい
)
【浄土】に生まれ、如来さまと同じく、最高のさとり(妙果)を 開かせていただくことができるのであります。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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