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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第121回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
の教え【3】」
更新
2021年9月
24
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
の教え【3】
「
惑染凡夫信心発
(
わくぜんぼんぶしんじんぽつ
)
」
【惑染の凡夫 信心を発すれば】
「
証知生死即涅槃
(
しょうちしょうじそくねはん
)
」
【生死すなわち涅槃なりと証知せしむ】
「
必至無量光明土
(
ひっしむりょうこうみょうど
)
」
【かならず無量光明土に いたれば】
「
諸有衆生皆普化
(
しょうしゅじょうかいふけ
)
」
【諸有の衆生みな あまねく化すと いえり】
惑
(
わく
)
とは、私を惑わすもの、すなわち煩悩のことです。
染とは、汚染、すなわち、よごれに そまることです。
ですから、「惑染の凡夫」とは、煩悩によごれ そまった凡夫ということです。
私たちは、毎日の生活の中で、「凡夫」という言葉をよく口にします。
しかし、私たちは「凡夫」という言葉を知らず知らずのうちに、自分を弁護し、肯定するために使っているのではないでしょうか。
失敗や間違いをしでかして、「凡夫ですからね」と、自らをかばい、うそをつき、悪口やお上手をいいながら、「凡夫ですもの」と、 自らを肯定し、思うようにならないと、周りの人の死さえ願い、「凡夫だもの」と、自らの恐ろしさに驚くこともなく、それが当たり前というような顔をしているのが、 私たちではないでしょうか。
親鸞聖人は、このような
得手勝手
(
えてかって
)
な受けとり方を厳しい言葉で、
われ往生すべければとて
為
(
す
)
まじきことをもし、思ふまじきことをも おもひ、言ふまじきことをも言ひなどすることは あるべくも
候
(
そうら
)
はず、
貪欲
(
とんよく
)
の
煩悩
(
ぼんのう
)
に狂はされて欲もおこり、
瞋恚
(
しんに
)
の煩悩に狂はされて
猜
(
ねた
)
むべくもなき因果をやぶる心もおこり、
愚痴
(
ぐち
)
の煩悩にまどはされて思ふまじきことなどもおこるにてこそ候へ。
めでたき仏の御誓のあればとて、わざと
為
(
す
)
まじき事どもをもし、思ふまじき事 どもをも思ひなどせんは、よくよくこの世の
厭
(
いと
)
はしからず、身の悪き事をも思い知らぬにて候へば、念仏に
志
(
こころざし
)
もなく、仏の御誓にも志の
在
(
おは
)
しまさぬにて候へば、念仏させたまふとも、その御志にては順次の往生も
難
(
かた
)
くや候ふべからん。
(『末灯鈔』)
と、ご注意下さいます。
仏教の言葉は、どんなことがあっても、他人の攻撃や自己の弁護のために使ってはいけないと思います。
仏教の言葉は、あくまで、如来さまの お徳を
讃嘆
(
さんだん
)
し、自己を味わうために使われるべきです。
ですから、「凡夫」という言葉も、自己を深く知らされ、味わう言葉として使うべきです。
すなわち、意志が弱くて、結局は目先のことと、自分のことだけに引きずり回されている私であったという悲しい自己告白が、「凡夫」という言葉であります。
しかし、こんな悲しい「煩悩によごれそまった凡夫」でありましても、ひとたび「信心発すれば」「かならず無量光明土にいたり」如来さまの お手伝いをさせていただく身となるのです。
「信心」とは、自己の悲しい、あてにならないありのままの
相
(
すがた
)
と、どんなことがあっても変わることのない確かな阿弥陀如来の大慈悲心が
審
(
つまび
)
らかになることです。
そのことが
審
(
つまび
)
らかになれば、当てにならない自己をよりどころとする心がなくなり、確かな阿弥陀如来の 大慈悲心をよりどころに生きるという新しい人生が開けてきます。
そのことを、「発すれば」、すなわち「開発すれば」というのです。
阿弥陀如来をよりどころに生きる身となったとき、迷いの世界をあちらこちらとさまよい歩いてきた、悲しい凡夫である私が、そのまま、真実のさとりを 開かせていただく、幸せものであったと知らされるのです。
私たちの先輩は、このことを、
生死の凡夫
即
(
すなわち
)
涅槃
(
ねはん
)
の
分人
(
ぶんにん
)
と解了する也。
(『正信念仏解捕影記』)
と教えてくださいました。
阿弥陀如来にすべてをまかせ、大慈悲心にいだかれて生きるものは、「かならず無量光明土にいたる」のです。
私たちは、日常「かならず」ということをよくいいますが、私たちの「かならず」は、あまり当てになりません。
「かならず幸せにする」という、ご主人の言葉にだまされた、と思っておられる人も多いことでしょう。
しかし、ご主人も、初めからだますつもりでいわれた訳ではないでしょう。
努力しても、思うようにいかず、結果としてだましたことになるのが私たちの悲しい現実なのです。
ですから、ここで「かならず」とおっしゃるのは、私の努力によって実現するということではなく、確かな阿弥陀如来のおはたらきによって、 「無量光明土にいたる」ということです。
親鸞聖人は、真実の世界を「無量光明土」といわれ、ただ単に「極楽」とおっしゃることはありませんでした。
「無量光明土」とは智慧限りない世界ということでありますが、それはまた、すべてのものが光り輝き、相互に照らしあっている世界ということでもあります。
私たちの世界は、ほとんどの人も物も、どんよりと曇り、相互に照らしあうどころか、相互に足を引っぱりあい、 邪魔しあっている世界であるといってもいいのではないでしょうか。
私たちは、阿弥陀如来におまかせする(信心)だけで、かならず、すべてのものが光り照らしあう真実の世界に生まれることができるのです。
しかし、それは、決して自分一人が真実の世界に生まれればいいということではありません。
それは、苦しみ悩むすべてのもの (
諸有
(
しょう
)
の衆生)を救うためであります。
真実の世界に生まれたものは、自分一人がよろこぶという心がなくなり、苦悩する人の力になることを、何よりのよろこびとするのです。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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