《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第120回 女性のための正信偈しょうしんげ
曇鸞大師どんらんだいしの教え【2】」
更新 2021年8月

 23 曇鸞大師どんらんだいしの教え【2】
 

 「天親菩薩論註解てんじんぼさつろんちゅうげ
【天親菩薩の論を註解して】
 「報土因果顕誓願ほうどいんがけんせいがん
【報土の因果誓願にあらわす】
 「往還回向由他力おうげんねこうゆたりき
【往還の回向は他力による】
 「正定之因唯信心しょうじょうしいんゆいしんじん
【正定の因はただ信心なり】

  曇鸞大師どんらんだいしは、天親菩薩の『浄土論』を詳しく注釈し、解明してくださいました。
 これが『往生論註』【略称『論註』】といわれる上下二巻のお書物です。
 このお書物によって『浄土論』の本当のおこころが明らかになりました。
 親鸞聖人はこのことを、
 
 天親菩薩のみことをも
 鸞師ときのべたまはずは
 他力広大威徳の
 心行しんぎょういかでかさとらまし
   【『高僧和讃』】
 
 論主ろんじゅの一心ととけるをば
 曇鸞大師のみことには
 煩悩成就ぼんのうじょうじゅのわれらが
 他力の信とのべたまふ
   【『高僧和讃』】
 
 と、よろこばれています。

  曇鸞大師は『論註』によって、私たちの「真のよりどころ」となる真実の世界【浄土】は、 「どんなことがあっても私たちを必ず救う」という阿弥陀如来の四十八の願いによって出来上がったことを明らかにしてくださいました。
 私たちの家庭を例にとって考えてみますと、夫は夫の都合のいいように家庭を考え、妻は妻の立場だけで家庭を考えたら、家庭は一体どうなるでしょうか。
 互いの思いの押しつけあいの場となり、争いが絶えないでしょう。
 夫は妻子の幸せを第一に考え、妻は夫や子の安らぎを第一と考え、子は親の身を案じるような家庭なら、争いの起こりようがありません。
 争うことによって苦しむのは周りの人だけではありません。自分自身が一番苦しまなければならないのです。
 人間は、争いのない、すなわち、自分の思いを押しつけ合うことのない世界において、本当の安らぎを得るのです。
 阿弥陀如来は、四十八の願いを私たちの幸せと安らぎのみを念じて  おこしてくださったのです。親鸞聖人は、この如来のお心を、

 如来、一切苦悩の衆生海を 悲憫ひみんして、不可思議 兆載永劫ちょうさいようごういて、菩薩の行を行じたまひし時、三業 所修 一念 刹那せつなも清浄ならざる無し、真心ならざる無し。
  【『教行信証』信巻】

 と、たたえられています。
 この清浄なる真心によってできたのが、阿弥陀如来の浄土です。
 この浄土において、私たちの本当の幸せと安らぎが実現するのです。
 だからといって、この世はつまらないから逃げ出せというのではありません。
 私たちは、生まれ難い人間に生まれ、真実の世界を知らせて頂いたのです。
 生命のあるかぎり、真実の世界を範として、この世を改めていこうと努力せずにはおれないのです。
 精一ぱい生きる私の人生そのままが、お浄土への人生となるのです。
 どうしてそうなるのかといいますと、「どんなことがあっても浄土に生まれさせる」という、阿弥陀如来の本願のはたらき【他力】があるからです。
 また、浄土に生まれるということは、自分一人が幸せになり、安らぎを得るということではないのです。
 本当の幸せと安らぎを知ったものは、それを一人占めすることができません。
 それで、浄土に生まれたものは、すぐにこの世にもどり、争い苦しむ人たちに、本当の幸せと安らぎを知ってもらうはたらきをするのです。
 そんな大変なこと、私はできないと思われる人があるかもしれませんが、少しも大変ではないのです。
 自分一人の力でするということでしたら大変ですが、阿弥陀如来と一緒にさせて頂くのです。
 阿弥陀如来の大きな大きなおはたらき【他力】があるのですから、私たちは、自分のできることを精一ぱいやるだけでいいのです。
 
 私たちが浄土に生まれること 【往相おうそう】も、また、この世にかかわって、苦しむ人たちに、本当のことを教えるはたらき 【還相げんそう】もすべて、阿弥陀如来の本願のおはたらき【他力】によってなされるのです。
 ですから、私たちが間違いなく浄土に生まれる たね【正定の因】は、阿弥陀如来の本願のおはたらきにすべてをおまかせする「信心」一つです。
 阿弥陀如来に、いいやら悪いやらという善悪の 沙汰さたを、すべてまかせて、精一ぱい生きる以外に、私たちが浄土に生まれることも、またこの世に かかわって、苦しむ人たちを救うこともできません。
 現代では、「他力」といいますと、「他人に頼って生きること」・「他力本願ではいけない」という言葉をよく見かけます。
 「他力」とは、他人をあてにして、「自分は怠けてもいい」という考えでは決してありません。
 「他力」は、横着者を弁護する思想ではありません。この人生を一生懸命、力一ぱい生きようとするものの「よりどころ」となるものです。
 
 私たちは、この人生を生きようとしても、過去のあやまち、未来の不安、また他人の眼など、あれが気になり、これが障害となって なかなか力を出しきれないものです。
 それで、私たちはいつでも前後左右を気にした中途半端な生き方になってしまいます。
 こんな私たちに「過去のあやまちも、未来の不安も、他人の眼も気にせずに、やり直しのきかない人生を精一ぱい生きてごらん。
 どのような結果になろうとも、どのようなうわさをたてられようとも、私が引き受けてやろう。
 どんなことがあっても見捨てるようなことはしないから、力一ぱい生きなさい」と、励まし、勇気づけてくださるおはたらきが他力【阿弥陀如来の本願力】なのです。
 この他力を「よりどころ」とし、この他力に励まされ、勇気づけられて、おぼつかない足どりではあっても、精一ぱい、この人生を生き抜けば、 私がはからわなくても阿弥陀如来は間違いなくお浄土に生まれさせてくださるのです。
 そしてさらに、苦しむ人たちを救うという尊いはたらきをこんな私にさせてくださるのです。
 私の人生の一から十までが阿弥陀如来のおはたらきによって開けてくるのです。
 こんな広い広い人生を実現してくださるはたらきが「他力」なのです。
 また、「信心」といいますと、多くの人は「苦しい時の神頼み」ぐらいに思っておられるようですが、親鸞聖人が曇鸞大師のご指南によって、あきらかにして くださった「信心」とは、前を見たり、後ろを見たり、左を見たり、右を見たりしながら、上を向いてため息し、下を向いて涙するしかないような私のあり方と、 そんな私を引き受けてくださる阿弥陀如来の大慈悲心があきらかになり、すべてを阿弥陀如来におまかせして、精一ぱい生きるという真っすぐな人生が開けることなのです。
 
 



※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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