《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第119回 女性のための正信偈しょうしんげ
曇鸞大師どんらんだいしの教え【1】」
更新 2021年7月

 22 曇鸞大師どんらんだいしの教え【1】
 

 「本師曇鸞梁天子ほんしどんらんりょうてんし
【本師曇鸞は梁の天子】
 「常向鸞処菩薩礼じょうこうらんしょぼさつらい
【つねに鸞のところにむかいて菩薩と礼したてまつる】
 「三蔵流支授浄教さんぞうるしじゅじょうきょう
【三蔵流支 浄教を授けしかば】
 「梵焼仙経帰楽邦ぼんじょうせんぎょうきらくほう
【仙経を梵焼して楽邦に帰したまいき】

  親鸞しんらんというお名前は、天親菩薩の「親」と、 曇鸞大師の「鸞」を頂かれたものであります。
 このことは、親鸞聖人が、天親・曇鸞の二師を深くお慕いされていたことを物語っています。
 親鸞聖人は、曇鸞大師(西暦四七六~五四二)をお慕いする心を『続高僧伝』の記述によって、
 
 本師曇鸞大師をば
 梁の天子蕭王(そうおう)は
 おはせしかたにつねにむき
 鸞菩薩とぞ礼(らい)しける

 と、うたっておられます。
 親鸞聖人は、曇鸞大師の素晴らしさをたたえるのに、どうして「梁の天子」をだされたのでしょうか。
 私はこのように思うのです。世の中で一番頭下げないのは権力者です。また、他人の話をじっくり聞かないのも権力者です。
 蕭王(そうおう)がどのような人であったか、私は知りません。しかし、どんな素晴らしい人でも「天子」という権力の座につけば、自分の言葉を 押しつけることはあっても他人の話に耳をかたむけることはむずかしいと思います。
 いわんや、他人に頭を下げさせても他人に頭を下げることなど考えられないでしょう。
 そのむずかしい、考えられないことを蕭王(そうおう)はされたのです。曇鸞大師の素晴らしさを見聞する時、天子も頭を下げずにはおられなかったのです。
 そのような素晴らしい曇鸞大師にも、迷いの時期がありました。
 十五歳で出家された曇鸞大師は、いろいろな学問をされましたが、とりわけ『中論』『大智度論』等、龍樹菩薩の著されたものを学ばれました。
 ところが、「大集経」(だいじゅきょう)(六十巻もある大部の経典)の 注釈ちゅうしゃくをしておられる途中で、病気になられました。そこから曇鸞大師の迷いが始まるのです。
 何をするにも健康が第一、長生きしなければ、何ごともやり遂げることはできないと考えられた曇鸞大師は、仏教を かたわらにして、当時、道教の第一人者といわれていた 陶弘景とうこうけいについて、長寿の法を学び、 『衆醮儀しゅうしょうぎ』十巻、いわゆる「仙経」を授けられました。
 曇鸞大師は、大いに喜び洛陽の都に帰ってきました。これが、曇鸞大師の迷いなのです。
 長寿の法を学んでも、結局、最後には「死」が待っています。仏教は 「生死しょうじいずべき道」です。生と死を超えて、永遠に生きる道が釈尊によって明らかにされたのです。
 このことを、親鸞聖人は
「大信心は すなわれ、長生不死の 神方しんぽう
(『教行信証』信巻)
 とよろこばれています。
 永遠に生きる道を学びながら、曇鸞大師は、長寿の法を道教に求められのです。すなわち、自らの進むべき方向を間違われたのです。
 これは、曇鸞大師一人の問題ではありません。現代の私たちの問題でもあります。
 「十方の如来にも三世の諸仏に捨てられた」私たちを捨てることができないとおっしゃってくださる阿弥陀如来のみ教えを聞きながら、何かあると、 やれどこそこの仏さまに・・・神さまに・・・と走り回っているならば、曇鸞大師の迷いをそのまま繰り返していることになります。
 曇鸞大師は、インドからきておられた経典翻訳僧
(三蔵法師)の 菩提流支ぼだいるしい、『観無量寿経』を授けられ、教えをうけて、自分の間違っていたことに気づき、ただちに 「仙経」を焼き捨てて、浄土のみ教えに帰依されました。
 その後、曇鸞大師は阿弥陀如来のみ教えを一すじによろこばれました。そして、すべての人が救われていく念仏の道をあきらかにされ、 梁の蕭王(そうおう)はじめ、多くの人々から鸞菩薩と慕われました。
 
 



※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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