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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第118回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「
天親菩薩
(
てんじんぼさつ
)
の教え【2】」
更新
2021年6月
21
天親菩薩
(
てんじんぼさつ
)
の教え【2】
「
帰入功徳大宝海
(
きにゅうくどくだいほうかい
)
」
【功徳の大宝海に帰入すれば】
「
必獲入大会衆数
(
ひつぎゃくにゅうだいえしゅしゅ
)
」
【かならず大会衆のかずにいることをう】
「
得至蓮華蔵世界
(
とくしれんげぞうせかい
)
」
【蓮華蔵世界にいたることをうれば】
「
即証真如法性身
(
そくしょうしんにょほっしょうしん
)
」
【すなわち真如法性の身を証せしむと】
「
遊煩悩林現神通
(
ゆうぼんのうりんげんじんずう
)
」
【煩悩の林にあそんで神通を現じ】
「
入生死薗示応化
(
にゅうしょうじおんじおうげ
)
」
【生死の薗にいりて応化をしめすといえり】
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は
「
功徳
(
くどく
)
」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳を みちきはまるを海に
譬
(
たと
)
へたまふ。
(「一念多念証文」)
と、お示しくださいます。
このお言葉から明らかなように、「功徳の大宝海」とは、「よろづの善根功徳をみちきはまる」南無阿弥陀仏の呼び声なのです。
「帰入」とは、
帰依廻入
(
きええにゅう
)
ということです。
すなわち、今まで、自らの力を信じ、自らの力をたのみとし、力んで、きばって、かたくなって生きてきた私が、実は自らのやったことすら 始末することができず、自らの人生の見通しもつかないままに、他人の顔色や言葉ばかりを気にして生きている無力な私であると知らされ、「まかせよ」と 呼んでくださる南無阿弥陀仏をよりどころに生きる身に変えられるということです。
言葉を換えれば「信心」ということなのです。
「かならず」とは、私のああだ、こうだというはからいによるのではなく、阿弥陀如来のおはたらきによるということです。
すなわち「他力」をあらわすお言葉です。
「大会衆のかず」とは、
正
(
まさ
)
しくお浄土に生まれる身に定まった仲間、
正定聚
(
しょうじょうじゅ
)
ということです。
ですから、私たちは、南無阿弥陀仏にまかせ、南無阿弥陀仏をよりどころに、南無阿弥陀仏と共に精いっぱい生きるだけで、自ら意識しなくとも、 間違いなくお浄土に生まれる身に仕上げられるのです。
このよろこびを
天親菩薩
(
てんじんぼさつ
)
は明らかにしてくださるのです。
さらに、お浄土に生まれさせていただき、
真如法性
(
しんにょほっしょう
)
の身、すなわち、阿弥陀如来と同じさとりをひらかせていただき、煩悩に 引きずり回され、迷いを深めている人たちを阿弥陀如来と共に真実に導くお仕事をさせていただくのです。
私は
天親菩薩
(
てんじんぼさつ
)
が、阿弥陀如来の浄土を
蓮華蔵世界
(
れんげぞうせかい
)
とおっしゃっていることをありがたくいただいております。
蓮華
(
れんげ
)
は、泥沼にしか咲きません。
泥沼に咲きながら、泥水に汚されることなく美しく咲くのです。
煩悩の泥沼の中にありながら、煩悩の泥に汚されることなく、煩悩をこやしとし、煩悩を縁として真実に
遇
(
あ
)
わせていただく念仏者の生まれさせていただく世界、それが阿弥陀如来の浄土です。
また、阿弥陀如来の浄土は、私たちの煩悩に汚されず、はかりしれない素晴らしいお徳を含蔵する世界であります。
それで、
天親菩薩
(
てんじんぼさつ
)
は阿弥陀如来の浄土を
蓮華蔵世界
(
れんげぞうせかい
)
というお言葉で明らかにしてくださったのです。
これに対して、この世を「煩悩の林」「生死の薗」という言葉でお示しくださっています。
煩悩とは、わが身を
煩
(
わずら
)
わし、わが心を悩ますものです。
真実を知らず、自分の思いだけを絶対とする思い
【
愚痴
(
ぐち
)
】から出てくる種々の思いが煩悩です。
人生がすこし自分の思い通りにいくと、私たちはむさぼりの心 【
貪欲
(
とんよく
)
】をますます拡大させて、むさぼりの泥沼に落ち込んでいきます。
反対に、人生が自分の思うようにならなくなると、いかりの心【
瞋恚
(
しんに
)
】を 燃えあがらせ、わが身を焼いていきます。
煩悩はこれだけではありません。
うぬぼれ 【
驕慢
(
きょうまん
)
】
・うらみ【恨】
・
嫉妬
(
しっと
)
【嫉】
・物惜しみ【慳】
・横着【
懈怠
(
けたい
)
】
・わがまま 【
放逸
(
ほういつ
)
】
など、数えあげれば限りがありません。
その数の多さを林にたとえられるのです。
そんな煩悩の林の中で、自らを見失い、どちらに向かっていけば、煩悩具足から出ることができるかもわからないままに、右往左往している私たちです。
生死とは「いつまでも若くありたい」「いつも健康でありたい」「まだまだ死にたくない」と思いながら、つぎつぎと自分の思いが足元から くずれていく中で、涙しながら、さまよい歩き、迷いを繰り返している様をいうのです。
私がさまよい歩いているところは、ほとりがわからないぐらい広いところです。
それで生死を薗にたとえられたのです。
煩悩の林の中で右往左往している私。
生死の薗をさまよい歩いている私が、浄土に生まれ、如来となって阿弥陀如来と共に、この煩悩の林・生死の薗にもどって、人々の悩み・苦しみをわが身のことと 受けとめ、種々に姿を変え、さまざまの手だてで煩悩の林・生死の薗にある人々を真実の世界・浄土に導くお仕事をさせていただく身となるのです。
私たちは、この大変なお仕事を何のこだわりもなく遊ぶがごとくさせていただくのです。
なんとうれしいことでしょう。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
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西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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