《 聖典の講座 》
 
『無常迅速 生死の事大なり』

     
第116回 女性のための正信偈しょうしんげ
龍樹菩薩りゅうじゅぼさつの教え【2】」
更新 2021年4月

 19 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつの教え【2】
 

 「顕示難行陸路苦けんじなんぎょうろくろく
【難行の陸路のくるしきことを顕示して】
 「信楽易行水道楽しんぎょういぎょうすいどうらく
【易行の水道たのしきことを信楽せしむ】
 「憶念弥陀仏本願おくねんみだぶつほんがん
【弥陀仏の本願を憶念すれば】
 「自然即時入必定じねんそくじにゅうひつじょう
【自然に即のとき必定に入る】
 「唯能常称如来号ゆいのうじょうしょうにょらいごう
【ただよくつねに如来の号(みな)を称して】
 「応報大悲弘誓恩おうほうだいひぐぜいおん
【大悲弘誓の御を報ずべしといえり】
 

 本師 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、
 智度十住毘婆沙等じゅうじゅうびばしゃとう
 つくりておおく西をほめ
 すすめて念仏せしめたり

と、 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつを親鸞聖人はたたえられます。
智度ちどとは 『大品般若経だいぼんはなにゃきょう』を 注釈ちゅうしゃくされた 『大智度論』です。
 十住毘婆沙じゅうじゅうびばしゃとは 『華厳経けごんきょう』の十地品を 注釈ちゅうしゃくされた 『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』であります。
 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつにはこの他にも、私たちが日常よくお勤めさせて頂く 『十二礼じゅうにらい』等、沢山の著述がありね「千部の論師」とも、「八宗の祖師」とも あがめられています。
 それらのお書物は、多くの阿弥陀如来のお浄土の徳をたたえ、念仏をすすめてくださるものですが、中でも
十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』の第五巻 「易行品いぎょうぼん」に、
 
 仏法に入るのに はかり知れないほど多くの文があります。世間でふみ行う道にも難しい道と やさしい道があります。
 すなわち、陸路を歩いて行くのは苦しいのですが、水上を船に乗って渡るときは楽しいようなものです。
 仏法を求めて歩む菩薩の道も同じことです。勤めて勤めてただ一すじに進んでいく人もいますし、あるいは、阿弥陀如来を信じ、すべてを如来のおはたらきに おまかせして、易しくよろこびの人生、間違いなくお浄土に生まれることのできる人生を生きている人もいます。

 と、説いておられます。

 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、意志が弱く、こだわりの強い私たちのために、阿弥陀如来の おはたらきにおまかせする「易しい道」を明らかにしてくださったのです。
 阿弥陀如来の「どんなことがあっても必ず救う」という本願を 憶念おくねんすれば、 自然じねんにすぐさま、お浄土に生まれるに間違いない身に仕上げられるのです。
 すなわち 正定聚しょうじょうじゅ(真実の世界に生まれるに間違いない仲間)の くらいにつくのです。
 親鸞聖人は 憶念おくねんについて、

  憶念おくねんすなわれ真実の一心なり、真実の一心は即ち、 大慶喜だいきょうきしんなり、大慶喜心は即ち是れ真実信心なり。    (『教行信証」信巻)
 
 といわれ、 自然じねんについて、
 
 自然じねんといふは、自はおのずからといふ。行者のはからひにあらず
 しからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆえに、 法爾ほうにといふは如来の御ちかひなるがゆえにしからしむるを 法爾ほうにといふ。
    (『自然法爾章』)
 
 とあきらかにしてくださいます。
 
 ですから、「本願を  憶念おくねんすれば、自然に」とは、阿弥陀如来の本願におまかせすれば、私たちの はからいによるのではなく、如来の本願のはたらきによって 正定聚しょうじょうじゅに入るということなのです。
 
 私のはからいによって、私の人生がお浄土に生まれるに間違いないものとなるのではないのです。
 はからえばはからうほど、愛欲あいよく名利みょうりのなかにおぼれていく私たち。
 そんな私たちを間違いなく浄土にわたしてくださるのは阿弥陀如来の本願なのです。
 
 生死しょうじの苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓みだぐぜいのふねのみぞ
 のせて必ずわたしける  (『高僧和讃』)
 
 これが、本願を 憶念おくねんするもののよろこびです。
 私たちは 「ただ」この広大なお慈悲のご本願をよろこび、常に南無阿弥陀仏の 名号みょうごうをとなえさせて頂くばかりであります。
 「ただ」について、親鸞聖人は、

 「ただ」はただこのこと一つといふ。二つならぶことを嫌うことばなり、 また 「ただ」はひとりという意なり。  
       (『唯信鈔文意』)
 
 
 と、おっしゃっています。「唯」の反対は、「別」ということです。これについても親鸞聖人は、
 
 
 「別解べつげ」は念仏しながら他力をたのまぬなり、 「別」といふは ひとつなることを ふたつにわかちなすことばなり、「解」はさとるといふ、とくといふ語なり、 念仏しながら自力にさとりなすなり。
     (『一念多念証文』)

 と、おっしゃっています。
 阿弥陀如来の本願におまかせすることと、南無阿弥陀仏の名号をとなえさせて頂くことは一つのことなのです。
 そして、このこと一つによって、私たちは間違いなくお浄土に生まれるよろこびの人生を生きることができるのです。
 このご恩は何ものにも比べられません。一すじに念仏申さずにはおれません。

 不退のくらいすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬くぎょうの心を 執持しゅうじして
 弥陀みだ名号称みょうごうしょうすべし  (『高僧和讃』)





※『女性のための正信偈しょうしんげ』 
    藤田徹文ふじたてつぶん
本願寺出版社
電話 075-371-4171
 

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