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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第111回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「信心の
利益
(
りやく
)
【3】」
更新
2020年11月
14 信心の
利益
(
りやく
)
【3】
「
獲信見敬大慶喜
(
ぎゃくしんけんきょうだいきょうき
)
」
【信をえて見て敬い大きに慶喜すれば】
「
即横超截五悪趣
(
そくおうちょうぜつごあくしゅ
)
」
【すなわち横に五悪趣を超截す】
小さな暗闇の
殻
(
から
)
の中に とじこもっている私が、阿弥陀如来の「おさめとって捨てることのない」光に照らし つづけられて、ようやく光に遇うことができました。
暗闇の中を おののきながら、手さぐりで生きてきた私にとって、光の素晴らしさを どう表現したらいいのでしょうか。
ただ、ほれぼれと光を仰ぐしかありません。
光に遇って、自らの正体が明らかになったときの驚き・悲しみは言葉では あらわすことができません。
それだけに、自分でも いやになるような、こんな私を見捨てることなく照らしつづけてくださる光に遇えたよろこびは、 何ものにも比べることのできないものであります。
今までの私は、小さな はからいの
殻
(
から
)
の中で どうにもならないことを どうにかしようと、思い患ってきました。
とりかえしのつかない過去の あやまちを いつまでもクヨクヨと思い悩み、まだこぬ未来の不安に
戦慄
(
せんりつ
)
し、ただオロオロと、周りの人の顔色を 伺いながら 生きてきました。
今、光に遇い、自らの正体が知らされたとき、自らの はからいが
如何
(
いか
)
に
無駄
(
むだ
)
なことであったかが はっきりしました。
私の はからいで どうにかなると思っていたことが思い上がりであり、こっけいなことでありました。
過去を、とやかく思い患ってみても、どうにもなりません。
また、未来を どれだけ案じてみても、どうにもなりません。
人の顔色を ながめてオロオロすることも、むなしいことです。
ただ、「おさめとって捨てることのない」光の中を、光に導かれて力一杯、精一杯生きる以外に 私の生きる道はありません。
この光に照らし出された道を一すじに歩むのです。
信心の大道を歩む身に育てあげられ、光を よろこばして頂く身に しあげられた私は、もう再び迷いの道に舞い戻ることはありません。
迷いの道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五つの道です。
地獄とは、自らの生きるよりどころを持たず、その時その時の状況で、どこにでも流れて行く、いわゆる正体を もたない亡者と、他人の欠点を あばきたてることだけに 生命を費やしている鬼の生きる道であります。
餓鬼とは、欲望に負けて ズルズルと欲望の底なし沼に 落ち込んでいく道であります。
畜生とは、『涅槃経』に 「
慚愧
(
ざんぎ
)
無き者は、名づけて『人』と
成
(
な
)
さず、名づけて 『
畜生
(
ちきしょう
)
』となす」と いわれますように、自らを恥じることなく、ぐちを こぼすのも当たり前と、 自らの行為を単純に肯定して生きる道であります。
人間とは、、いろいろな道に踏み迷いながら、時には立ち止まり、時には振り返りながら、真実を模索して生きる道であります。
天上
(
てんじょう
)
とは、恵まれているが故に つい ウカウカと 日を送り、とりかえしが つかなくなってから、初めて気づき、嘆き悲しむ道であります。
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の光に照らされて導かれて生きる信心の人は、 このような五つの迷いの道を超えさせて頂くのです。
そして、再び このような道に迷いこむことはないのです。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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