このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第107回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「わたくしの
救
(
すく
)
い」
更新
2020年7月
10 わたくしの
救
(
すく
)
い
「
本願名号正定業
(
ほんがんみょうごうしょうじょうごう
)
」
【本願の名号は正定の業なり】
「
至心信楽願為因
(
ししんしんぎょうがんにいん
)
」
【至心信楽の願を因とす】
「
成等覚証大涅槃
(
じょうとうがくしょうだいねはん
)
」
【成等をなり大涅槃を証することは】
「
必至滅度願成就
(
ひっしめつどがんじょうじゅ
)
」
【必至滅度の願成就なり】
阿弥陀如来の光明に はぐくまれ、育てられる私が「どんなことがあっても必ず救う」という ご
本願
(
ほんがん
)
より、私たちの胸に
至
(
いた
)
り届いてくださる名号のはたらきによって、まちがいなく、 真実の世界に生きぬく身に しあげられるのです。
本願
(
ほんがん
)
の
名号
(
みょうごう
)
は、私たちに確かな人生を あたえてくださる はたらきなのです。
確かなものが何一つない この世で、不確実な生命に不安を感じながら、不確実な人生を生きる私たちに、間違いのない確かな人生を あたえてくださる はたらき、 それが
本願
(
ほんがん
)
の
名号
(
みょうごう
)
であります。
すわなち、どこで、どのようなことに出会い、どのような結果になり、どのような かたちで 一生を終わろうとも、
娑婆
(
しゃば
)
の
縁
(
えん
)
尽
(
つ
)
きて 力なくして終わるときに
彼
(
か
)
の
土
(
ど
)
へは
参
(
まい
)
るべきなり。
【『
歎異抄
(
たんにしょう
)
』第九章】
と いわれますように、間違いなく真実の世界に 生まれる という確かな人生が めぐまれるのです。
私たちは、確かなものを もつことによって、はじめて
力
(
ちから
)
一ぱい生きられるのです。
確かなものを もたないとき、人は本当に生きることはできません。
すなわち
不安
(
ふあん
)
の根から目を そらし、さびしさを
ごまかしながらしか生きることができません。
十五歳の少女の手紙です。
「今の子供は、今の子供は」と 大人たちは言います。でも、私たちのような、本当に何も知らないものが どうして そうなってしまったのでしょうか。
確かに私たちの意志の弱さも あるかも知れません。
でも、その裏側を
誰
(
だ
)
れも気付いてはくれないのです。
死ぬのは
卑怯
(
ひきょう
)
かも しれません。逃避なのですから。
でも何かがほしいんです。何かは わかりません。
でもお金ではない。品物でもないんです。名声でも地位でもありません。何かです。
自殺
(
じさつ
)
した北ヨーロッパの老人の手記です。
私が生きてゆけなくなったのは 食べ物がないからではない。着物がないからでもない。住宅がないからではない。
私たちの心の底まで知り尽くしてくれるものが いないのではないか。人生の底に うらぎらない愛がないものであろうか。
人間は、確かなものがないと生きられないのです。
多くの人は不確実なものを確かなものと思いあやまって つかんでいます。
そして、その不確実さが見えてくると、「こんなはずではなかった」とグチり、「うらぎられた」と嘆き悲しみながら、またしても不確実なものを つかまえて、一時しのぎをします。
本当に確かなもの、それが
本願
(
ほんがん
)
です。本当に確かな人生を約束してくださるもの、それが、名号の はたらきなのです。
正
(
まさ
)
しく 「
本願
(
ほんがん
)
の
名号
(
みょうごう
)
は
正定
(
しょうじょう
)
の
業
(
ごう
)
」 「【間違いなく お浄土に生まれさせる はたらき】」であります。
本願
(
ほんがん
)
の
名号
(
みょうごう
)
となって 私たちの胸に至り届いてくださる如来のまこと【至心】に
遇
(
あ
)
って、愛と疑いによって小さな
殻
(
から
)
に とじこもっている私の胸が開くのです。
開いた胸から、明るい如来の光明が さしこんできます。
確かな如来の よび声が聞こえてきます。よろこびが身に にじみ出てきます。
私の人生の夜明け なのです。不安の人生から、よろこびの人生に転じられるのです。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、
信楽
(
しんぎょう
)
は、すなわち これ
真実誠満
(
しんじつじょうまん
)
の心なり、
極成用重
(
ごくじょうゆうじゅう
)
の心なり、
審験宣忠
(
しんけんせんちゅう
)
の心なり、
欲願愛悦
(
よくがんあいえつ
)
の心なり、
歓喜賀慶
(
かんぎがけい
)
の心なるがゆえに、
疑蓋
(
ぎがい
)
まじわることなきなり。
【「
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
」信巻】
と、よろこばれています。
すなわち
信楽
(
しんぎょう
)
とは、まことが満ち満ち、確かなる まことが明らかになり、よろこびが心身に みちあふれる心であると おっしゃるのです。
私たちは、
光明
(
こうみょう
)
と
名号
(
みょうごう
)
の はたらきにより、信心を たまわるのです。
その たまわる信心により、間違いなく真実の世界に生きぬく身となるのです。
これを
等正覚
(
とうしょうがく
)
の
位
(
くらい
)
【さとりを開いたに等しいくらい】とも、
正定聚
(
しょうじょうじゅ
)
【真実の世界に生まれるに間違いない仲間】とも、
不退転
(
ふたいてん
)
【もとの不安な人生に もどることのない位】とも いうのです。
等覚
(
とうがく
)
の
位
(
くらい
)
に つくがゆえに、かならず真実の世界に生まれ、真実の さとりを開くのです。
このことは、
もし、わたくしが仏になるとき、国内の人々が
正定聚
(
しょうじょうじゅ
)
に入り、かならず
滅度
(
めつど
)
に
至
(
いた
)
ることが できぬようなら、わたくしは決して さとりを開きません。
と
誓
(
ちか
)
ってくださった第十一願の おかげであります。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、ここのところを、
まことに
知
(
し
)
んぬ、
徳号
(
とくごう
)
の
慈父
(
じふ
)
ましまさずば
能生
(
のうしょう
)
の
因
(
いん
)
かけなん。
光明
(
こうみょう
)
の
悲母
(
ひも
)
ましまさずば
所生
(
しょしょう
)
の
縁
(
えん
)
そむきなん。
能所
(
のうじょ
)
の
因縁和合
(
いんねんわごう
)
すべしといえども、
信心
(
しんじん
)
の
業識
(
ごうしき
)
に あらずば
光明土
(
こうみょうど
)
に いたることなし。
真実信
(
しんじつしん
)
の
業識
(
ごうしき
)
これ すなわち
内因
(
ないいん
)
とす。
光明
(
こうみょう
)
の
父母
(
ぶも
)
これ すなわち
外縁
(
げえん
)
とす。
内外
(
ないげ
)
の
因縁和合
(
いんねんわごう
)
して
報土
(
ほうど
)
の
真身
(
しんしん
)
を
得証
(
とくしょう
)
す。
【「
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
」行巻】
と、あきらかに してくださいます。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
聖典講座に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。