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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第104回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「まれなる
願
(
ねが
)
い」
更新
2020年4月
7 まれなる
願
(
ねが
)
い
「
超発希有大弘誓
(
ちょうほつけうだいぐぜい
)
【希有の大弘誓を超発せり】
五劫思惟之摂受
(
ごこうしゆうししょうじゅ
)
【五劫これを思惟して摂受す】」
二百一十億の諸仏の世界を見て歩かれた
法蔵比丘
(
ほうぞうびく
)
は、 「まれなる願い」を起こし、長い長い間 考えぬいた すえに、その願を誓われたのです。
それが『大無量寿経』に説かれる四十八通りの願です。
四十八願は、すべて 「
設我得仏
(
せつがとくぶつ
)
」で始まり、
「
不取正覚
(
ふしゅしょうがく
)
」の言葉で終わります。
「
設我得仏
(
せつがとくぶつ
)
」とは、 「私が仏になったら」ということです。
「
不取正覚
(
ふしゅしょうがく
)
」とは、「仏にならない」ということです。
ですから、四十八の願は すべて、
「私が仏になったら、○○のことは実現させます。 それができないようなら、私は仏になりません」
という
法蔵比丘
(
ほうぞうびく
)
自身にとって、非常に厳しいものであります。
最近のように、子どもを生んだだけで、親だというのとは ずいぶん違います。
「仏になる以上は」と
法蔵比丘
(
ほうぞうびく
)
は誓ってくださいますが、私たちの場合、 「親になる以上は」というものがあったでしょうか。
子供の顔を見てから、子供のことを考えているようでは、あまり大きな顔で 「私は あの子の親だ」とは いえないのではないでしょうか。
では、
法蔵比丘
(
ほうぞうびく
)
は何を実現しようと誓ってくださったのでしょうか。
中国の
浄影
(
じょうよう
)
と言う人は、四十八の願を、
「
摂法身
(
しょうほっしん
)
の願」・ 「
摂浄土
(
しょうじょうど
)
の願」・ 「
摂衆生
(
せつしゅじょう
)
の願」と分けて味わっておられます。
摂法身
(
しょうほっしん
)
の願とは、 自ら どういう如来になるかを誓われた願です。
「生まれてくる子供のために、こういう親になりたい」と誓う、私たちの思いに似ています。
ただし、私たちの場合は思いだけに終わりがちですが、、、。
摂浄土
(
しょうじょうど
)
の願とは、こういう世界を作りたいと誓われた願です。
私たちの場合でいいますと、「生まれてくる子供のために、こういう家庭を作りたい」という思いに あたるでしょう。
摂衆生
(
せつしゅじょう
)
の願とは、私たちを どうして救うかを誓われた願です。
私たちの場合でいいますと、「理想の家庭にふさわしい子供に どうしたら育てることができるか」ということでしょう。
ただし、私たちの場合は、子供自身のことよりも親の思いが先走り、子供を苦しめることが多いのですが、、、。
願の内容としては以上のようです。
四十八の願の心は、といいいますと、 「
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
」という言葉が一番ぴったりくるように思います。
「
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
」とは、「逃げるものを追わえとってでも捕まえ、 どんなことがあっても捨てない」ということです。
ですから、「どんなことがあっても必ず救う」というのが四十八の願の心であります。
救うにあたって、一切、条件はありません。
条件どころか逃げるものすら必ず救うという願であります。
そこに「まれなる願い」と いわれる理由があります。
四十八の願は、 すべて大切な願いですが、私たちにとって一番大切な願は、といいますと、十八番目の願、すなわち第十八願です。
蓮如上人が まるで
金銀
(
きんぎん
)
の山に入るような尊い書物であるといわれた 『
安心決定鈔
(
あんじんけつじょうしょう
)
』には、
弘誓
(
ぐぜい
)
は四十八なれども 第十八の願を本意とす、
余
(
よ
)
の四十七は この願を信ぜしめんが為なり。
と おっしゃっています。親鸞聖人は、
斯
(
こ
)
の大願を 「
選択本願
(
せんじゃくほんがん
)
」と
名
(
なづ
)
く。
【『
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
』 信巻】
と いわれ、第十八願を「選びぬかれた根本の願」であると おっしゃっています。
では第十八願には何が誓われているのでしょうか。
第十八願は、「すべての人を、信心一つで 真実の世界に生きぬく身に しあげる」ということが誓われています。
そこで、まず私たちの あり方を考えてみますと、
「
自障
(
じしょう
)
」は愛に
若
(
し
)
くは
莫
(
な
)
し、 「
自蔽
(
じへい
)
」は疑に
若
(
し
)
くは
莫
(
な
)
し。
【『
楽邦文類
(
らくほうもんるい
)
』】
と いわれるような状態です。
すなわち、したいことが できない、言うべきことが いえない「
自障
(
じしょう
)
」のは、 人に笑われては、失敗しては という 自らが かわいい という心「愛」によるものであり、 自らの思いを、みんなの人に知っってもらおうとしない「
自蔽
(
じへい
)
」のは、 他の人が信頼できない「疑」ことによるといわれるような状態
このような、愛と疑に
縛
(
しば
)
られ、自らの小さな
殻
(
から
)
に とじこめられている私たちが、心を開いて、広い世界を本当に生きる身、すなわち、真実の世界に 生きぬく身になるには、如来の真実(親の まこと)に
遇
(
あ
)
い、それを受け入れる信心以外にないのです。
この如来の真実(親の まこと)を必ず受け取らせて、すべての人を必ず救うと誓ってくださったのが第十八願なのです。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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