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《 聖典の講座 》
『無常迅速 生死の事大なり』
第102回
女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
「
帰命
(
きみょう
)
のこころ」
更新
2020年2月
5
帰命
(
きみょう
)
のこころ
「
帰命無量寿如来
(
きみょうむりょうじゅにょらい
)
【無量寿如来に帰命し】
南無不可思議光
(
なもふかしぎこう
)
【不可思議光に南無したてまつる】」
「
帰命無量寿如来
(
きみょうむりょうじゅにょらい
)
、
南無不可思議光
(
なもふかしぎこう
)
」の二句は、さきにも述べましたように、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の信仰告白であり、字の上からいいますと、共に 「南無阿弥陀仏」の漢訳です。
「南無阿弥陀仏」と漢字で書かれていますが、もともとインドの言葉に漢字をあてはめただけですから、
「南無阿弥陀仏」の一字一字には意味はありません。
すなわち、
南無
(
なむ
)
は
帰命
(
きみょう
)
という意味であり、
阿弥陀
(
あみだ
)
は
無量寿
(
むりょうじゅ
)
・
無量光
(
むりょうこう
)
という意味です。
ここでは、
無量光
(
むりようこう
)
を
不可思議光
(
ふかしぎこう
)
といただかれているのです。
では帰命とはどういうことでしょうか。
「
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
」の「行の巻」に、 親鸞聖人は、詳しく「帰」と「命」のこころをあじわわれるのであります。
まず「帰」については、
「
帰
(
き
)
」の
言
(
ごん
)
は、又
帰悦
(
きえつ
)
なり、又
帰税
(
きさい
)
なり。
等とおっしゃるのです。
「帰」とは、毎日がすこしうまくいけばいったで うぬぼれて、自己を見失い、すこし つまずけば つまずいたで、腹をたて、自己を見失い、 ウロウロしている私を、阿弥陀如来が「私の方に帰ってきなさい」と呼んでくださる言葉です。
しかし「帰」という言葉は、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
が、じっとしていて声だけかけてくださるということではありません。
「帰れ」と声をかけてくださるときには、すでに私のところに 「
至
(
いた
)
」ってくださるのであるということを、「帰は至るなり」と親鸞聖人は よろこばれるのであります。
妙好人・浅原才市翁は、
才市
(
さいち
)
がウロウロしていると、
親
(
おや
)
さま 【
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
】が、
この
才市
(
さいち
)
に ぶつかって、
「おい
才市
(
さいち
)
やい、
才市
(
さいち
)
やい」
と呼んでくださる。
という意味の うたを作っておられます。
私は「ぶつかって」という表現のなかに、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の力強い おはたらきを よろこばれた
才市
(
さいち
)
翁の心を味わわせていただくのです。
聖人は 「
帰悦
(
きえつ
)
」というお言葉に「よりたのむなり」、 「
帰税
(
きさい
)
」というお言葉に「よりかかるなり」と
左訓
(
さくん
)
されています。
ですから「帰」が「帰悦」「帰税」であると いわれる おこころは、 真実の よりどころをもたず、行きあたりばったりに、あれに よりかかり、これに しがみついて生きる、 ちょうど、 「
溺
(
おぼ
)
れるものは
藁
(
わら
)
をもつかむ」ような生き方の私たちに、 阿弥陀如来が「どんことがあっても、見すてることのない私がいるのですから、この私を たよりにしてください。 この私によりかかってください」と呼んでくださる お心であると おしめしくださるのです。
「命」の
言
(
ごん
)
は
業
(
ごう
)
なり、
招引
(
しょういん
)
なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。
とあかされるのであります。
「命」は、「いのち」という字ですが、聖人は、「いのち」と読まずに、「命ずる」と いただかれたのです。
「命ずる」とは、どういうことかといいますと、聖人は「業」だといわれるのです。
「業」とは、理屈ではなしに、そうせずにはおれないはたらきとでもいえばいいのでしょうか。
よく一般に「親の業」ということをいいますが、親は子のことになると、いくら口で きびしいことをいっても、いざとなると じっとしておれないものです。
そのじっとしておれないはたらきを「業」というのです。
阿弥陀如来が私に「帰れ」と命じてくださるのは、阿弥陀如来の業なのです。
業といわれる心は、私が阿弥陀如来に、「どうぞよろしくお願いします」とたのんだから、また、だれかが、私のことを心配して、阿弥陀如来に 「なんとかしてあげてください」と いわれたのではなく、阿弥陀如来が ちょうど親が子を ほっておけないのと同じように、私をほっておくことができなくて、 呼んでくださる おはたらきであるといわれるのです。
親鸞聖人は このように、つぎつぎと「帰」と「命」の字を あじわわれたうえで、
是
(
ここ
)
を
以
(
もつ
)
て 「
帰命
(
きみょう
)
」は
本願招喚
(
ほんがんしょうかん
)
の
勅命
(
ちょくめい
)
なり。
と 「
帰命
(
きみょう
)
」の心を あきらかにされるのです。
すなわち、「帰命」は阿弥陀如来が私のことを案じ、呼び、かつ至ってくださる お心であり、その おはたらきそのものが、 無量寿・不可思議光の おとくを そなえた「阿弥陀如来」であります。
重ねて申しますと、
「
帰命無量寿如来、南無不可思議光
(
きみょうむりょうじゅにょらい、 なもふかしぎこう
)
」の二句は、 阿弥陀如来の、私を救わんがための おはたらきを示された お言葉でありますとともに、それがそのまま親鸞聖人の 「私は、この苦難の人生を、私のことを案じ、南無阿弥陀仏(どんなときでも私がいるよ)と 呼んでくださる如来さまと共に生きぬかせていただきます」 という宣言です。
すなわち、親鸞聖人の信仰告白なのであります。
※『女性のための
正信偈
(
しょうしんげ
)
』
藤田徹文
(
ふじたてつぶん
)
本願寺出版社
電話 075-371-4171
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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