法 話 私の如是我聞
聴聞の心得 一、このたびのこのごえん は、初事はつごとと思うべし
一、このたびのこのごえん は、我一人われいちにんの為と思うべし
一、このたびのこのごえん は、今生最後こんじょうさいごと思うべし

第3回 無常の「いのち」 更新平成23年11月

  ある日のこと、お釈迦さまは、お弟子たちに向かい、自分がまだ若い王子であった頃のことを思い出して、 次のように話されたといいます。  「私はとても、 裕福ゆうふくで、 楽しく暮らしていた。庭の 蓮池はすいけには、 青や赤や白の 蓮華れんげが 咲きみだれていた。 私はいつも最上のお香や、衣服を用い、冬・夏・雨季を快適にすごせるように、私のために、三つの 宮殿きゅうでんが 建てられていた。なにひとつ不自由なく、すごしていたけれども、あるとき、私に次のような思いが おこった。
 人は、他の人が老いていくのを見て悩み、 ける。 しかし、私もまた老いてゆくのであると気づいたとき、私の青年のほこりは、全く消え失せてしまった。 人は、病人を見て、悩み、嫌い、 ける。 しかし、私もかならず、病気になる身であることに気づいたとき、 私の健康のほこりは、全く消え失せてしまった。  人は、他人の死を見て、悩み、嫌い、 ける。 しかし、私もまた、死から逃れられないことに気づいたとき、私の生存のほこりは、全く消えうせてしまった。」
(『中阿含経ちゅうあごんきょう』) というのです。  
私たちは、人間であるかぎり老い、病み、死ぬものであることを知ってはいます。 しかし、この私がそうなることを 真剣しんけんに 考えようとはしません。むしろ考えることを けていると いってもいいでしょう。 これは真剣に考えのが、恐ろしいからなのです。  若い日のお釈迦さまは、そのことに気づいて、それを超越する道を 求められたのでした。  私の「いのち」は、明日をも知れぬ。 無常むじょうの 「いのち」です。 きびしいけれど、この現実をはっきり見きわめなければなりません。 では私の「いのち」が、そのような不確かな、無常の「いのち」であるならば、 かぎりある人生をどのように生きていくかが、問題となるでしょう。 それを教えてくれるのが仏教であり、お念仏なのです。  お互いに、「生れてきてよかった」といえる人生を送りたいものです。
 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・。


※『朗読法話集(第一集)』(本願寺出版社 1,300円 電話 075-371-4171)
読経だけでなく、少しでも、み教えを味わっていただけるようにとの願いから、本願寺から刊行されました。
※本書は「仏の教え」「浄土真宗の教え」「特別法話」「荘厳・仏事・作法」の四種類に分類しています。一つの法話で ひとつの内容を味わっていただけるよう編集されています。
※ご法座の最後は、「では最後にご一緒にお念仏申しましょう」といって、一同がお念仏を申しながら、 合掌礼拝して終了します。


須彌壇と宮殿 四季折々の花で、一時を
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