☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第28回
慚愧と歓喜
更新
平成25年12月
日ごろから私たちは「南無阿弥陀仏」と、お念仏をとなえさせていただいております。ではお念仏を となえるとは、どういう意味があるのでしょうか。
他のご
宗旨
(
しゅうし
)
では、たとえば 「
百万編念仏
(
ひゃくまんべんねんぶつ
)
」 などといわれますように、数多くとなえるほど
功徳
(
くどく
)
があると、回数を問題にされる ところもありますが、浄土真宗では、念仏の数が問題なのではありません。
お念仏をとなえさせていただくことは、お念仏を聞かせていただいているのです。
私のような
煩悩具足
(
ぼんのうぐそく
)
の
凡夫
(
ぼんぶ
)
を救うために、 如来さまが与えてくださった本願の名号ですから、名号を称えますと、そこには、「罪はいかほど重くても かならずたすける」と仰せられる、仏さまの大悲の本願が聞こえてくるのです。
そして仏さまの慈愛の中に、生かされている自分であることに、気づかせていただくわけですが、 同時にまた、仏さまの教えに照らされますと、私の愚かな姿が見えてきます。
平気でウソをいうし、人をどなりつけたり、ねたんでみたり、欲張りなことを考えたり、 とにかく、罪深く愚かな私であることが、しみじみと知らされます。
妙好人
(
みょうこうにん
)
の
浅原 才市
(
あさはらさいいち
)
さん 【島根県
温泉津
(
ゆのつ
)
町】は、 「あさましい」と「ありがたい」という言葉を、いつも口にしておられたそうです。
「あさましい」とは、我欲にまみれた私であるという、深い反省から出た言葉です。
また、「ありがたい」というのは、こんな「あさましい」私を救うと仰せくださるとはなあ、という感謝の思いを あらわされたものです。
この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏を申す生活の中でひとつになるのです。
この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、なんと「ありがたい」ことかと よろこぶと同時に、だからこそ、このみ仏の御恩に報いるためにも、懸命に生きなければならないのです。
では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・。
※『朗読法話集(第一集)』(本願寺出版社 1,300円 電話 075-371-4171)
読経だけでなく、少しでも、み教えを味わっていただけるようにとの願いから、本願寺から刊行されました。
※本書は「仏の教え」「浄土真宗の教え」「特別法話」「荘厳・仏事・作法」の四種類に分類しています。一つの法話で ひとつの内容を味わっていただけるよう編集されています。
※ご法座の最後は、「では最後にご一緒にお念仏申しましょう」といって、一同がお念仏を申しながら、 合掌礼拝して終了します。
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。