☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第17回
法を聞く
更新
平成25年1月
私たちは、なかなか自分では、自分の姿に気がつきません。
人から指摘されるまで、自分の姿を知ることが出来ないことが多いようです。
そして、人の欠点ばかりが目につき、人の悪口ばかり言って、お互いに傷つけあっているのではないでしょうか。
このような自分を振り返ることのない、自己中心のこころを 「
煩悩
(
ぼんのう
)
」といい、 これが私の迷いや、悩みの原因となっているのです。
しかし、自分のみにくい姿は、とても見えるものではありません。
それどころか、迷っていることさえ気づかないのです。
自分の欠点だらけの姿を見るということは、
不愉快
(
ふゆかい
)
なことですし、 たとえ親しい人から指摘されたとしても、受け入れにくいものです。
仏法も同じことで、なかなか耳に入ってきません。
お寺の
法要
(
ほうよう
)
や、
聞法会
(
もんぽうかい
)
などで、 せっかく法話を聞き、ご縁にあわせていただいているのにもかかわらず、素直に仏さまの教えを受け入れられないのは、 やはりひとりよがりの心が邪魔をしているからです。
仏法を他人ごととしてしか受けとめようとしないのは、その心のせいです。
浄土真宗は、
法
(
ほう
)
(みのり)を聞くということを、 なによりも大切なことだと教えます。
法を聞くことによって、私たちは自らのはずかしい姿を知らされると同時に、 このような私に
慈愛
(
じあい
)
をそそぎ、 救わずにはおられないと願い続けておられる、阿弥陀如来の存在を知らされるからです。
私のかたくなで、みにくい心をくずして、素直に仏さまの言葉が耳に入るようになるには、 何度も何度もくりかえし、教えを聞いてゆかなければなりません。
一生涯
(
いっしょうがい
)
が
聞法
(
もんぽう
)
です。
そうして、この煩悩だらけの私も、阿弥陀如来の大きな慈悲の中に、いだかれていると 気づかせていただくとき、素直に、「南無阿弥陀仏」と称えさせていただけるようになります。
忙しい日常生活の中で、なかなか仏法を聞く機会を見いだしにくいかも知れませんが、 つとめてみ教えに触れ、わが姿を反省していきたいものです。
では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・。
※『朗読法話集(第一集)』(本願寺出版社 1,300円 電話 075-371-4171)
読経だけでなく、少しでも、み教えを味わっていただけるようにとの願いから、本願寺から刊行されました。
※本書は「仏の教え」「浄土真宗の教え」「特別法話」「荘厳・仏事・作法」の四種類に分類しています。一つの法話で ひとつの内容を味わっていただけるよう編集されています。
※ご法座の最後は、「では最後にご一緒にお念仏申しましょう」といって、一同がお念仏を申しながら、 合掌礼拝して終了します。
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。