☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

第11回 「布施のこころ」 更新 平成24年7月

 「布施ふせ」という言葉は、サンスクリット語でダーナ、すなわち
「与える」という意味ですが、仏教では、単に物を人に与えるということではありません。 一般に、私たちが、物を人に与えようとするときは、「人がよろこぶから与える」「人がこまっているから与える」 「物が余っているから与える」というよな場合です。
しかし、仏教でいう「布施」は、必要以上に物をたくわえて、 むさぼるという執着しゅうちゃくのこころを、とりのぞくための 修行しゅぎょうなのです。
ですから、布施を行う場合には、なにを与えるかということを、意識してはなりませんし、だれに与えるのかということも、 さらに、私が与えたというとらわれがあってはならないというきびしい条件がついています。
「物」は本来、善でも悪でもありません。しかし、私たちの思いが加わるとき、それがみにくいものともなり、 人をよろこばせるものともなるのです。仏教では、そうした物への執着しゅうちゃくの こころをいましめて、こころから布施を行なうことをすすめているのです。
また、布施は、お金や物が豊富にないとできないものではありません。 「無財むざい七施しちせ」 といって、だれにでもできる布施があることを教えています。
たとえば、
 @人にやさしいまなざしで接する布施
 Aにこやかに人に接する布施
 B人にやさしい言葉をかける布施
 C人に礼をつくして接する布施
 D愛情のこもったこころで接する布施
 E人に座席をゆずる布施
 F人をあたたかく家にむかえる布施
です。
このような布施なら、私たちの心掛けしだいで、いつでもできることです。
今の世の中、人と人とのあたたかい関係がうすれ、孤独感を味わうことが多くなってきました。もっぱら、利害関係が中心になっています。 こんなときこそ、布施のこころは、福祉を支える精神として、最も大切にしなければならないものでしょう。
自分の利益のみを追い求めるこころを反省し、少しでも布施の行ないをさせていただくのが、 仏教者として、念仏者としての、つとめといえるでしょう。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・。

※『朗読法話集(第一集)』(本願寺出版社 1,300円 電話 075-371-4171)
読経だけでなく、少しでも、み教えを味わっていただけるようにとの願いから、本願寺から刊行されました。
※本書は「仏の教え」「浄土真宗の教え」「特別法話」「荘厳・仏事・作法」の四種類に分類しています。一つの法話で ひとつの内容を味わっていただけるよう編集されています。
※ご法座の最後は、「では最後にご一緒にお念仏申しましょう」といって、一同がお念仏を申しながら、 合掌礼拝して終了します。




今生最後と思うべし 一このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし 一このたびのこのご縁は 初事と思うべし 一このたびのこのご縁は 聴聞の心得


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