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「彼岸会法要」
『彼岸会法要』について 
『彼岸会法要』が、平成31年2019年3月27日【水】昼席・夜席〜28日【木】昼席、光西寺にて、行われました。

講師 安間 秀常師【山口県 専正寺】より、尊いご法話を聞かせて頂きました。有難うございました。合掌


「皆様には、ようこそお参り下さり、有り難うございます。
 御講師様には、尊い仏縁を頂きまして、有り難うございました。」

☆仏様のみ教え☆           【文責 住職】
 
私たちの願いというものは、欲望というものは無限です。 
その一人の一人の無限の欲望を叶えようとしたら、どうしてもおかしくなってきます。
 「祈ることで病気も直り、死なないということがあるのなら、どうしてこの世に病人や死人がいるのでしようか。」と法然上人は言われています。
浄土真宗は祈らなくても頼まなくても救うという教えです。
 私が願いもせぬのに、頼みもせぬのに、阿弥陀様の方から、「どうぞ助かってくれよ。どうぞ、この親をたのんでくれよ。」と。 
 逆に、仏様の方から願われている宗教が浄土真宗の尊いところであります。  
 だから、私たちは、今、阿弥陀様から願われているのです。私が仏さまから背を向けても、それでも捨てることは出来ないと、私一人のために立ちあがられたのが、 あの立撮即行(りっさつそくぎょう)のおいわれですね。

【『立撮即行(りっさつそくぎょう)』→仏様のお座りの姿は、悟りの「静」の心を意味します。煩悩の炎が消えた心持ちを意味します。
 仏様のお立ち姿は、悟ったが故に迷えるものを救わずにはおれないと、お働き下さる「動」の姿を意味しています。
 わが子を思う親のように、如来は危なっかしい私の事が心配で、じっと座ってはいられないのです。
 仏様の右手を上げている姿は「招喚(しょうかん)の印」と言います。真実の智慧により迷いの私を見抜き、招き喚んで下さる姿です。
 仏様の左手を下げ掌を上に向けておられるのは「摂取(せっしゅ)の印」と言います。
 ひとたび摂め取ったならば、決して捨てることがないお心を意味します。
 全ての命を漏らさず等しく救う。如来の「慈悲」の心わ意味しています。
 仏様のお立ちになった阿弥陀如来の姿を、『立撮即行(りっさつそくぎょう)』といいます。
「撮」は撮影の「撮」で「真うつし」、ありのままを救うという意味です。
「撮」を「つまだつ=爪先で立つ」と味わい、生死の苦海に沈む私、迷いの私を救わんと、まさに飛び込もうとする姿だと味わわれました。
 仏様の心は、お働きは、「今・ここ」の私に、離れず寄り添って下さるのです。】                         
 
 阿弥陀様は木像の姿であり、絵像の姿なのでありますが、「私が祈らずとも救う、願わずとも救う。」というお慈悲が、今、ここに、 「南無阿弥陀仏」と届いて来ているのですわ。
 普通は、私が祈ったり、願ったりするのですが、祈るどころが、皆さんは私の話に集中することも中々出来ないでしょう。
 阿弥陀経は他のお経と違って、お釈迦さんが一方的に語りかけていく形式になっています。
 他のお経は、お釈迦さんの弟子が問いかける事に対して、その問いに答える形に構成されているのですが、この阿弥陀経はそうではありません。
 問いに答えるのではないので「無問自説」【むもんじせつ】の経だと言われています。
 この経は無問自説経ともうす。この経を説きたまいしに、如来に問いたてまつる人もなし。
 これすなわち、釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなり
 このように述べておられます。
 お釈迦さまに誰も何も訊ねなかったということが「無問」、ご自身の気持が動いてお説きになったというのが「自説」ということです。
 親鸞聖人はそこを押さえて、お釈迦さまがこの世にお出ましになった最高の目的(出世の本懐)、それをあらわされたお経であるから 「無問自説経」と申すのである、と言われました。
 「説かずにはおれなかったもの」、「この世にお出ましになった大事な意味」、「どうしても言い残こしたいこと」 、それがこの『阿弥陀経』に込められていると見られたのです。 
 阿弥陀経には
 何故 阿弥陀様を阿弥陀様と呼ぶのか? と問いかけがあります。原文は下記の如くです。
「彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障礙する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す。
又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く」
と説かれています。
*原文→『舎利弗、汝が意において云何。かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。
このゆえに号して阿弥陀とす。
また舎利弗、かの仏の寿命およぴその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく。』
*意訳→ 『そこでお釈迦さまは、極楽浄土の仏さまを、どうして阿弥陀と名づけるのであろうか。
お前どう思うか。舎利弗よ。かの仏様の光明は、はかりなく、十方の国を照らして、さわりがない。
だから阿弥陀というのである。また舎利弗よ、かの仏様の寿命もその国の人々の寿命もはかりなく、阿僧祇劫という人間では考えることのできない、
永い深い命である。だから阿弥陀と名づけるのであると説かれました。』
 ここに、『彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障礙する所無し』という言葉があります。
 『障礙【しょうげ】する所無し』とあり、意味は『さわりがない』と説かれています。「妨げられるものがない」という意味です。
 私たちの人生は「障礙する所無し」とは中々いきません。色々なことに妨げられています。その一つに「迷信」というものがあります。
 浄土真宗は祈祷【きとう】をしない宗教です。
 「本日はお日柄もよろしゅうございまして」と挨拶したりします。
 しかし、私の人生が「日柄」【ひがら】によってき決まるというのでしょうか?
 「門徒もの知らず」という言葉があります。
 言葉通りに解釈すると、「浄土真宗の信者はものを知らない、世間の常識を知らない。」ということになります。
 この言葉は元々、「門徒物忌み知らず」と言われていたものが略されて、「門徒もの知らず」になったのです。
 「ものを知らない」という意味ではなく「物忌みを知らない」という意味です。
 「物忌み」というのはバチやタタリを畏れ、それを避けることを言います。
  浄土真宗の教えを聞かせて頂きますと、迷信なのです。
 迷信にとらわれない浄土真宗の門徒の生き方を示した言葉が「門徒物忌み知らず」です。
「大安」「仏滅」「友引」・・といった、日の良し要しをいう、「六曜」というものがあります。
 「結婚式は仏滅にしない、大安にする。」とか、「友引には葬式は出さない。」といったことです。
 何故、友引に葬式をしないのかというと、死んだ人が親しい友を引っ張っていくからというのです。
 これは友引という字が、「友を引く」と書きますから、そのように解釈したのですが、根拠のない「迷信」なのです。
 日に良し悪しなどありません。
 「物忌み」には「語呂合わせ」によるものがあります。
 4という数字や9という数字がないのを見かけたことがあると思います。
 数字の「4」は死を連想し、「9」は苦を連想することからきた「物忌み」です。
 四十九日が三ヶ月にまたがる場合、それを嫌って法事の日程を早めるということをしますが、これは、「四十九日」を「始終苦しみ」と読み、
「三月」を「身につく」と読み、合わせて、「始終苦しみが身につく」という「語呂合わせ」から来ています。
 四十九日が三ケ月にまたがると、自分たちに「始終苦しみが身につく」からしない方がいいということも「迷信」です。
 私の人生は私自身が作り上げていくものではないでしょうか?
 私たちは、先ず「正しいこと」を学ばせて頂くことが大事であり、必要なことではないでしょうか?
 「正しいこと」を聞かせて頂き、先ず私自身が「正しくないことむを改めていかないかぎり、「間違い」とずっと子々孫々続いてきます。
 正しいことをきいて居たら、「ああそうか。間違いなのか。」と気づき、改めることが出来る。
 私の人生は誰にも代わって貰えない。間違いが間違いと分かると、「今日から改めましょう。」と正す勇気を持つことが出来ます。
 私たちは正しい教えにあって、初めて間違いが間違いと気づかせて頂けます。それが正しい教えに遇うということでしょう。
 迷うことの多い世の中に居て、迷わされない身に育てられました。さわりが、さわりにならない無碍の人生を歩むことが出来ます。
 これはやっぱり仏様の智慧の光を頂き、妨げられず生きていくことが出来る。
 私たちは、いつまで生きるかわかりませんが、自分の人生を大地にしっかり足を付けて、そういうものに迷わされず生きていきましょう。
 私たちは「正しい教え」を聞かせて頂き、「何ものにも妨げられるものがない」「無碍」【むげ】ということを、私たちの人生の歩みとさせて頂きたいものです。
 「歎異抄」【たんにしょう】の中に、「念仏者は無碍の一道なり」という言葉があります。 
 人生には、人間には、色々な妨げがあります。しかし、それらを乗りこえて生きぬかせて頂きたいものです。  
  親鸞聖人の書かれた「正像末和讃」に『かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祗をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす 』というのがあります。
 『 悲しいかな、いまの世の僧侶も俗人も、目先の欲望を満たすために日時の善悪吉凶を選び、現世の幸せを与えるとされる天の神、地の神をあがめ、 占いや祀りでもって幸福を得、災いを除こうと努めている。』
という意味です。
 私達はご縁があって、浄土真宗の教えを聴くことが出来ました。
 迷いに迷わされない身にお育てを頂く身を感謝して、無碍の一道を歩ませて頂きましょう。
 
☆住職の長男 長上 朋史【おさがみ ともふみ】が、平成30年3月より、お寺の仕事をお手伝いさせて頂くこととなりました。
 皆様の月忌参り【がっきまいり】のお勤めに参るかも知れません。
 皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

 ☆夜席の法座は、外ではなく、静かに自己の内面を見つめ、
 目に見えませんが、仏様に遇わせて頂いているという感じがします。
 どなたでも、どうぞご遠慮なく、夜席の法座にもお参り下さいませ。
 一日の営みを終え、静かに、共に仏様の命に遇わせて頂きませんか。


☆梵鐘【ぼんしょう】の用語解説→梵鐘【ぼんしょう】は「集会鐘(しゅうえしょう)」ともいい、法要や儀式を開始するに先立って、大衆が参集する合図として 三十分または一時間前に撞く。打数は十打とし、各間隔をゆっくりあけ、余韻がかすかになってから次を撞き、 最後の二打は少し間隔を早めて撞く。梵鐘は、法要や儀式以外(朝夕の時報など)に撞く場合もある。
☆喚鐘【かんしょう】の用語解説→ 勤行(ごんぎょう)や法会(ほうえ)などの開始を報じる小形の梵鐘(ぼんしょう)。半鐘。
 喚鐘は「行事鐘(ぎょうじしょう)」ともいい、法要や儀式の開始を知らせる合図として打つ。

打ち方は、適当な間隔で七打してから、打ち上げて打ち下し、次に五打してから再び打ち上げて打ち下し、最後に三打する(三打のうち第二打は小さく打つ)。



 行事の模様を、写真で紹介します。

『彼岸会法要』御講師
安間 秀常師 
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『彼岸会法要』
梵鐘【ぼんしょう】
長上朋史【長男】  
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『彼岸会法要』
27日昼席 
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『彼岸会法要』 
27日昼席 
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『彼岸会法要』
27日昼席
喚鐘【かんしょう】
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
27日昼席
「帳場」受付 
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『彼岸会法要』
「安穏法座」「共命法座」の案内
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
27日昼席
安間 秀常師    
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『彼岸会法要』
27日夜席
梵鐘【ぼんしょう】
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
27日夜席
「帳場」「受付」 
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『彼岸会法要』
27日夜席
静かな夜席 
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『彼岸会法要』 
27日夜席
安間秀常師 
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『彼岸会法要』
27日夜席
「教章」斉唱 
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『彼岸会法要』 
27日夜席
「恩徳讃」斉唱 
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『彼岸会法要』
28日昼席
庭の花 
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『彼岸会法要』 
28日昼席
「帳場」「受付」 
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『彼岸会法要』
28日昼席
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
28日昼席   
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『彼岸会法要』
28日昼席
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
28日昼席 
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『彼岸会法要』
28日昼席
安間秀常師 
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『彼岸会法要』 
28日昼席
休憩時間【茶菓子】 
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『彼岸会法要』
28日昼席
安間秀常師 
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『彼岸会法要』 
28日昼席 
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『彼岸会法要』
28日昼席
「安穏法座」「共命法座」の案内
長上朋史【長男】 
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『彼岸会法要』 
28日昼席
安間秀常師 
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