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「盆会法要」
『盆会法要』について 
『盆会法要』が、平成30年8月22日【水】昼席・夜席〜23日【木】昼席、光西寺にて、行われました。

講師 窪田 憲龍師【兵庫県 源徳寺】より、尊いご法話を聞かせて頂きました。有難うございました。合掌


「皆様には、お暑い中、ようこそお参り下さいました。有り難うございました。
 御講師様には、尊い仏縁を頂きまして、有り難うございました。」

☆☆仏様の教え☆☆

「仏教の教えでは四宝印【しほういん】といって、仏法の教えの特徴が説かれている。
 @諸行無常A諸法無我B涅槃寂静C一切皆苦である。
 全ては移り変わっているのに、そう認めない自我の気持ちがある。
 良い状態がいつまでも続くわけでもなく、悪い状態もいつまでも続くわけではない。 
 全ては無我なのに自我を認めないと気が済まない。 
 全て「自分の思い通りになることが幸せ」という「勘違い」があるから、思い通りにならないことが「苦」に感じられる。
 「執着」が少ないほど「苦」は少なくなっていくのだ。
「涅槃」は「寂静」なのだ。平和なのだ。
平和の反対とは何か?戦争、差別、飢餓、など、、数え上げたら結構あるのだ。
 日々の生活からは離れられないけれど、「涅槃」は「寂静」という、涅槃が中心の幸せというものを教えられる気がする。

 自分勝手な自我中心の心からは、決して幸せというものは得られないのだ。  
 自分が思い描いている幸せとは、何だろうか?
 自分の願い通りになること、自分の欲望が叶うこと、それを幸せと思っていないか?
 「あなたは今幸せですか?」と聞かれたら、どう答える?無いものばかり見ていたら、不幸せしかないでしょう!
 あるものばかり探したら結構幸せなのではないか? 
 自分が考え、思い描いている幸せと、釈尊が説かれた「しあわせ」とは質が違うような気がする。
 次元が違う幸せなんだろうか?自分が欲望が叶うという幸せと、法に遇うことの出来る幸せの違いなのか? 
 「自分の思い通りになること、自分の欲望が叶うことばかり追いかけていても、苦しむばかりで本当の幸せにはなれないよ。」と釈尊は説かれているのか。

 又、教えを聞く上で「自惚れ」というものが如何に障害になるものか!
「自分は優れている」「能力がある」と思い込んでいたら真実なんか見えない聞こえない。 
 教えを聞く力も教え自身にあるのだろうか?私の力で教えを理解することが出来るのだろうか?
 理屈ばかり知識ばかりを探求しても、「自分が如何に生きていくべきか?」という日常生活に全く無関心な仏法聴聞になってしまう落とし穴があるのだった。

 恥ずかしことだ。悲しいかな、凡夫の私は自惚れのかたまりだ。
「自分はよく分かっている。自分は真理を体得した人は見抜く力を持っている。」という気持ちでいては、隣に釈尊が居ても外見しか分からないから、気づかない。
 自惚れ、慢心、高上がりほど、「法」との出遇いを妨げているものはないのかも知れない。

 「遇い難くして 今遇うことを得たり 聞き難くして 今すでに聞くことを得たり」【「教行信証」親鸞聖人】という言葉には、自分が思い描いていたものではなくて、 それを超えたところから、私の方に出遇ってくれた「法」というものがある。 
 「たまたま行信を得ば 遠く宿縁を慶べ」【「教行信証」親鸞聖人】の言葉のように「たまたま」とある。
 それは自分の思い描いていたものに遇うということではなく、それを超えたところから私に遇いにきてくれた「法」というものとの出遇いの感動が感じられる。
 
 「法」をよりどころとして生きていくことが本当の幸せに適う道なのだろうか。 
 「生死の世界を『往生』と思ってくれよ。」 と願われているのか?

  このお盆の時期に、日頃忘れてばかりだけれど、先に往生された懐かしい人たちが仏と成られて、今、私を導いて下さるのだろう。
 生死とは「私の生死」である。ここが仏法の厳しさではないか。私の問題となれば他人のことのようにノンビリしてはいられない。 
 知識の問題ではなくて、私の生死の問題だったのだ。
 
仏教用語に「調伏」【ちょうぶく】という言葉がある。少し詳しく説明します。
「自己の身心を制御して悪を排除すること。自身の悪心を抑え除き、善心とすること。
対外的には敵意あるものを教化して悪心を捨てさせ、害をもたらすものを打ち破ること。
サンスクリット語のアビチャールカabhicraka(阿毘遮迦(あびしゃるか)と音写)の意訳。降伏(ごうぶく)ともいう。
密教修法では四種法(あるいは五種法)の一とされ、行ずる者自身の煩悩(ぼんのう)、あるいは悪行為を行う者の貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三根本煩悩、
ならびにそれによる行為を取り除き、福楽を獲得させようとするものをいう。」
という意味です。 
 簡単に「自己の身心を制御して悪を排除すること。自身の悪心を抑え除き、善心とすること。」という意味だけで味わいます。
 自分にはそういう部分が足りないと思います。
 これが欠けているところから煩悩【ぼんのう】の毒をまき散らして自他共に苦悩の種、要らんことばかり言って、不必要な争いの種をまき続けているのでしょうか。
「自己の身心を制御して悪を排除すること。自身の悪心を抑え除き、善心とすること。」
 これが少しでも心がけていれば「要らんこと言ったりして」「不必要なことトラブル」を未然に回避出来るのでしょうし、賢い生き方なのでしょう。
 今こうして年取って生きていること自体が不安、そんな時代になりました。昔は違っていました。
 今年寄りが淋しいと愚痴言うことがある。子供が自分の思い通りになってくれない。 
 自分の思い通りになってくれると期待しているから、思い通りになってくれないと愚痴言うようになってしまう。
 自分の子供にしてきたことと、子供に伝わってきたことが違っていた。しかし親は必死で生きてきたのだ!
 一人で居ないといけない、不安が強い時代です。
 今の私を喜べない感性になっしまった。そんな中、「恩」ということを考えてみたい。
「恩」とは原因の因に心と書く。「因」という字は、「広い敷物の上に人が大の字に寝ている」そういうことを表しています。
そういう広々とした心持でおれるということは、「因のお陰で、今の私が在るんですね。あれがあったから、今の私が在るんですね。」 という心ですね。
 それは「今の私を喜ぶ心がないと恩というものは感じられない。」ということですね。 
 「ここまで来れたおかげです。」「過去のしてもらったことの大きさがわかるから、今が喜べるのです。」
 「今を喜ぶ感性」ですね。「おかげ様」という感性は、恩を知る感性がないと感じられないことですね。 
 何か異常なことがあって普通の事が有難いと感じるのは、仏様の教えを頂いたものの感性ではないのか?普通ということはあり得ないのか? 
 「常と異なる」ということはどういうことなのか?「常」とはどういうことなのか?自分が「普通」とか「常」と思っているだけなのか?
 そこに私の思い違いがあるのか? 勘違いがあるのか?
 「年取ったら、役に立たないから、あきませんわ。」と言う年寄りの方がおられる。
 「生きていること」と「動いていること」とは違うのか?
そこのところをしっかり気づいていないで、「動いている」から、 「動かなくなりました。」という愚痴を言わなければいけないのか?
 動かなくなったら価値が無くなっていくと思い込んでいるのか?
そう思うと不安しかなくなる。それを喜びに変えていくのがお念仏のみ教えなのか?
 たとえ体は動かなくなっても生きているではないか。仏法は人を生かす。
 人間は自分の都合で、平気で心の中で、他人を消したり、殺したりする。
 もっとひどくなると、その人が生きていた痕跡【こんせき】まで完全に抹殺しようとする。
 「あんな奴なんか居なかったらいいのに。」と人間は心の中で思い、心の中で他人を消す。 
もっとひどくなると、心の中で消すだけでなく、そんな人は今まで居なかった、存在しなかったと、存在そのものを消してしまう。
 ただ消すだけなら、居なくなったら探してくれる人がいる。死んでも偲んでくれる人がいる。
 しかし、「その人が居たことさえ、そこに命があったことさえみんなで忘れましょう。」という「命の存在」を抹殺する心が人間にはある。 
 「そういうことがあったことさえ抹殺する」という恐ろしい心もある。それが私たちの不安につながっている。
 私は今生きている。しかし、何の存在価値もない。死んでからも価値がないものという淋しい気持ちになっていないか?
 「そこにその時に存在していたものを私たちは忘れません。」という温かい心もある。法事で亡き方を偲ぶ心は温かい。
 まるでそこにその人が居なかったかのように、偲ぶ心もない冷たい心もある。
 今私たちが直面している不安というものは、今生きている私だけれど、生きている価値がない、その存在価値すらない。
 望ましからざる姿、生きている資格もない。死んでも誰も思い出してくれない。まるでなかったかのような命になる。
「自分の命を価値あるもののと見てもらえない。」そんな命になってきたのではないか?という不安ではないか?
 そこにある命の価値をきちっと讃えるということがないと、今ある私の命さえ讃えられなくなってしまう。
 それがどれだけ自分の命を歪めていくか?世間というものを歪めていくか? 
 命というものを忘れ去ってはいけない。命を自分勝手な価値判断が身近な命を選別していくことになる。
 そういうことを見捨てることが出来ない。「十方衆生」と呼びかけられている。
 その仏様の呼び声を頂いている私たちです。 
 阿弥陀様は「捨てられない。」と言われる。人間が人間を捨てていったのです。
 「不簡」【ふけん】という言葉がある。不簡善悪の法【ふけんぜんあくのほう】「善人と悪人とを区別しない教法。」という言葉がある。   
 解釈の仕方次第では大変、危険なところのある言葉であるから十分に気をつけないといけないと思う。自分勝手に解釈してはいけない言葉ですよね。
 しかし、不簡善悪の法【ふけんぜんあくのほう】の仏様の慈悲に蘇る命というものもあるような気がする。 
 しかし、私たちは「選び」ますね。「選ぶ」ということは「捨てる」ということですね。
 命に優劣をつけていく人間の発想。「そんなになったら自分の命は駄目だ。」と自分の命を見てしまう。
 こういう見方が私自身を苦しめている見方なのですねえ。自分が自分を苦しめる毒がある。毒を毒と気づかせる知恵が仏様の智慧の働きです。
 「ああなったらいかん。こうなったらいかん。」という命の見方を変えないと、私が私の命を痛みつけることになる。
 仏様の「摂取不者」「あなたの命を捨てませんよ。」という心があるのです。
 今私がここに在るということを成り立たせるために様々な因がある。「恩」を感じる感性がある。
 こんなになっては駄目だという気持ちもありましようけれど、こんなになるまで生かされているという感性が大事ではないか。
 仏様の教え、法が真の拠り所であります。 
 
☆住職の長男 長上 朋史【おさがみ ともふみ】が、平成30年3月より、お寺の仕事をお手伝いさせて頂くこととなりました。
 皆様の月忌参り【がっきまいり】のお勤めに参るかも知れません。
 皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

 ☆夜席の法座は、外ではなく、静かに自己の内面を見つめ、
 目に見えませんが、仏様に遇わせて頂いているという感じがします。
 どなたでも、どうぞご遠慮なく、夜席の法座にもお参り下さいませ。
 一日の営みを終え、静かに、共に仏様の命に遇わせて頂きませんか。


☆梵鐘【ぼんしょう】の用語解説→梵鐘【ぼんしょう】は「集会鐘(しゅうえしょう)」ともいい、法要や儀式を開始するに先立って、大衆が参集する合図として 三十分または一時間前に撞く。打数は十打とし、各間隔をゆっくりあけ、余韻がかすかになってから次を撞き、 最後の二打は少し間隔を早めて撞く。梵鐘は、法要や儀式以外(朝夕の時報など)に撞く場合もある。
☆喚鐘【かんしょう】の用語解説→ 勤行(ごんぎょう)や法会(ほうえ)などの開始を報じる小形の梵鐘(ぼんしょう)。半鐘。
 喚鐘は「行事鐘(ぎょうじしょう)」ともいい、法要や儀式の開始を知らせる合図として打つ。

打ち方は、適当な間隔で七打してから、打ち上げて打ち下し、次に五打してから再び打ち上げて打ち下し、最後に三打する(三打のうち第二打は小さく打つ)。



 行事の模様を、写真で紹介します。

『盆会法要』御講師
窪田 憲龍師 
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『盆会法要』
梵鐘【ぼんしょう】
長上 朋史【長男】  
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『盆会法要』
22日昼席
「帳場」【受付】 
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『盆会法要』 
22日昼席
喚鐘【かんしょう】
長上朋史【長男】 
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『盆会法要』
22日昼席
「帳場」【受付】 
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『盆会法要』 
22日昼席「めぐみの集い」案内
長上朋史【長男】 
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『盆会法要』
22日昼席「めぐみの集い」案内
長上朋史【長男】     
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『盆会法要』 
22日昼席      
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『盆会法要』
22日昼席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』 
22日昼席 
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『盆会法要』
22日昼席 
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『盆会法要』 
22日昼席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』
22日昼席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』 
22日昼席 
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『盆会法要』
22日昼席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』 
22日昼席「教章」斉唱 
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『盆会法要』
22日昼席「恩徳讃」斉唱 
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『盆会法要』 
22日夜席
喚鐘【かんしょう】
長上朋史【長男】     
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『盆会法要』
22日静かな夜席 
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『盆会法要』 
22日夜席   
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『盆会法要』
22日夜席 
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『盆会法要』 
22日夜席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』
22日夜席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』 
22日夜席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』
22日夜席 
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『盆会法要』 
22日夜席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』
22日夜席「教章」斉唱 
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『盆会法要』 
22日夜席
「恩徳讃」斉唱     
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『盆会法要』
23日昼席
梵鐘【ぼんしょう】
長上朋史【長男】 
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『盆会法要』 
23日昼席
待ち時間に流れる真宗の映像DVD   
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『盆会法要』
23日昼席
「帳場」【受付】 
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『盆会法要』 
23日昼席 
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『盆会法要』
23日昼席
喚鐘【かんしょう】
長上朋史【長男】 
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『盆会法要』 
23日昼席 
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『盆会法要』
23日昼席
「めぐみの集い」案内
長上朋史【長男】 
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『盆会法要』 
23日昼席 
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『盆会法要』
23日昼席 
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『盆会法要』 
23日昼席
講師 窪田憲龍師     
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『盆会法要』
23日昼席 
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『盆会法要』 
23日昼席
ティータイム   
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『盆会法要』
23日昼席
ティータイム 
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『盆会法要』 
23日昼席 
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『盆会法要』
23日昼席
講師 窪田憲龍師 
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『盆会法要』 
23日昼席 
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『盆会法要』
23日昼席
「教章」斉唱 
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『盆会法要』 
23日昼席
「恩徳讃」斉唱 
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『盆会法要』
23日昼席 
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『盆会法要』 
23日昼席     
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『盆会法要』
23日昼席
庭の花 
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『盆会法要』 
23日昼席
庭の花   
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