☆☆ 領解文 ☆☆
 
【法話の後に拝読するもの】


この『領解文りょうげもん』は、蓮如上人の作られたものといわれる。この短い文章の中で、浄土真宗の教義内容は圧縮されているのである。
それ故、従来は勿論、現今でも浄土真宗の門徒は必ず暗誦し、法話の後には拝読したものである。この短い文章の中で、八十通の『御文章』の内容は圧縮されたものといわれる。
内容は安心、報謝、師徳、法度を簡潔に述べられたものである。
第一の安心とは浄土真宗の教義のもっとも重要なもので、これを否定すると浄土真宗は消えるのである。しかもこの安心一つでこの私がたすかるのである。
安心も信心も一つであり、「聖人一流章」の『御文章』にも、「聖人一流ご勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候」とある。
この信心をいただくことを生涯、力をいれられたのが蓮如上人であり、この信心をいただくことの内容をはじめに明らかにされているのである。蓮如上人は『御文章』の中で、しばしば「信心をとる」といわれている。 この信心をいただくとかとるということはこの私に何かものをもらうように思われる。多くの浄土真宗の熱心な門徒の人々はこれに生涯をかけて聴聞したものである。
しかし、他の宗教の上でみられるような「アナタは○○宗の神を信じていますか」と尋ねられると、「ハイ信じています」と答えるような信心ではない。 浄土真宗の信心は世界のどの宗教にも通じないし、仏教一般でいう信心とも異なる。その相違するところを『御文章』では他力の信心といわれている。 親鸞聖人の『教行信証』も畢竟づるに自力の信心と他力の信心の相違を明らかにされたものといわれる。他力の信心なるが故に信心一つでこの私がたすかるのである。 しかるに世間一般の常識で考えられたものはすべて自力の信心である。浅原才一翁の句に
「むねにさかせた信の花 弥陀にとられて 今ははや 信心らしいものはさらになし・・・・」
とある。
この「信心らしいものはさらになし」というのが他力の信心の相といわれる。 このことを『領解文』では「もろもろの雑行雑修自力のこころふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみまうして候」とある。
これを要約するとこの私の自力の心をすてて、後生の一大事はすべて阿弥陀さまにおまかせしなさいということである。自力の心のはからいは私自らではすてられないのである。
この私の後生の一大事の問題はすべて阿弥陀さまのうけもち---たのむ---であるから私のはからいは無用となるのである。
それ故、庄松同行のいわれる如く、御門主から「貴兄の覚悟はどうか」と訊かれた時、「オレのことは知らん、アレに聞け」と仏さまの方を指したといわれる。 このことが浄土真宗の安心であり、『領解文』の安心もこのことをいわれているのである。
それ故、この私のはからいの否定されるのはすべてが如来のはからいの中に生かされることになる。この私の救われる証拠は南無阿弥陀仏の六字のほかにはないことになる。
この南無阿弥陀仏---略して弥陀とも阿弥陀仏ともいわれている---にあわせていただいた後は南無阿弥陀仏を称えることはたすかることに役立たないので、そのまま御恩報謝の意となるのである。
それ故、「このうへの称名は御恩報謝と存じよろこびまうし候」とある。
この至宝にあわせていだいたのも御開山親鸞聖人をはじめ、蓮如上人、代々の御門主さまのおかげである。というのは、この至宝を間違いなくとどけていただいたのは次第相承の御門主さまによって伝承相伝されたからである。
最後にこのような尊い宝にあわせていただいた上は念仏者として恥じないように日ごろの行動をつつしみ、世の人々のために活動させていただきましょう。
しかし念仏者の生活は消極的な自らの中にとじこもっているという批判をよく聞く。それは、宗教の世界と他の社会科学の世界と混同しているからである。宗教の世界はどこまでも人間存在そのもの、自己の存在そのものに問いをもつところにある。一から多への方向にある。即ち個の極限をこえて公に出るのである。 社会科学の分野では逆に多から一へという逆の方向にある。
交通事故でも四十年以上前であったら余り問題にならない。その時の事故死の方々は損害賠償も保証もなかったのである。人間の生命は四十年以前も現在もその価値には変化ないであろう。もしこの一から多への立場を多から一へと逆にみると、宗教の生命は死滅するであろう。このことは倫理と宗教の混同の上でも通ずる。
(『御文章解説』稲城 選恵 著)より

【領解文の掟】  掟【おきて】とは、おきさだめという意味で、守るべく定められた一定の規則をいうのであります。
すなわち真宗門徒として、安心を決定したうえに、一生涯守るべき心得というものがあります。その心得を、御文章の中に、 ところどころに示されてあって、いわば念仏者のたしなみとして、日常生活の中に注意せねばならぬことがらであります。 これを心にかけつつしんでいくところに、宗門の団結が堅くなり、おごそかにご法義を護っていくことができるのであります。
それでは、御文章の中に、いかなる掟がなされているのでしょうか。まず御文章で、掟という言葉の出ているのは、一帖目の第九通です。 すなわち、
『当流のおきてをまもるといふは、我流につたふるところの義をしかと内心にたくはえて、外相にそのいろをあらはさぬを、 よくものにこころえたる人とはいふなり。』
といわれています。それから二帖目第六通には「掟の章」というのがあります。その最後に、
『これすなはち当流にさだむるところの、おきてのおもむきなりとこころうべきものなり。』
と結ばれてあります。その他、掟については、古来の先哲が、三カ条、九カ条、八カ条といろいろあげられておられます。・・・・
要するに、これを二面から考えることができます。その一面は一向専修の真宗門徒としては、鬼神を祭り、天に祈り、吉良日を占い、 物忌み【方角のいいわるいをかつぐこと】などのことがあってはならないということです。これは信仰として、あくまで守らねばならぬものです。 そして初めの「雑行雑修自力のこころをふりすてて」ということとも、照らし合っているものでしょう。
もう一面は、王法仁義を守ること。神明を軽しめざること。諸仏菩薩を疎略にせず、他宗を謗ってはならないこと。仏法者ぶるべからざること--- などをいましめられたものです。この中には蓮如上人時代の、社会事情からいわれたものもあって、必ずしも現代の社会に適当でないものもありますが、 しかしその精神を汲んでみれば、今なお通ずべきものがあると思われます。
これが教義上いかに大切かといえば、初めの問題は信仰上、宗風として大切なものであり、後の問題は社会生活として、心得べき重要なものと思われます。 すなはち信仰が社会生活の中に、われわれの日常生活の中に生きてこそ意味があるので、そうでなければ観念の遊戯に終わってしまいます。 とくに在家仏教としての、真宗の本義はここにあるというべきでしょう。
最後に、現代のわれわれの掟ともいうべきものは「浄土真宗の生活信条」四ケ条であることを申し添えておきます。
【『あなたの問いに答える』山本仏骨 編】



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