2024年4月 第150話

朝事*住職の法話

おやをさがせ」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「おやをさがせ」という題にしました。
 これは、妙好人みょうこうにん【信者のこと】の 源左げんざの父親が亡くなられる時に、息子の源左に言われた言葉です。

 梯 實圓かけはし じつえん和上の「妙好人みょうこうにんのことば」【法蔵館】を参考書として、 抜粋させて頂いて、ご縁を頂きたいと思います。
【方言が少し難しく読み難いですが、原文のまま載せます。】

 『おらぁ、十八の時、おやじに別れてのう。死なんす時「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして親にすがれ」っていわんしてのう。
 「親をさがせ」ちたって、どこにおられるむだらか、「親にすがれ」ちたって、どがなふうにすがるかわかりゃせず、おらもなんぼこそ親さんに背をむけたり、 捨ててしまったりしたこつか、わからんだいのう。』
 
 彼が仏教を本気で聞くようになったのは、十八歳のときに父がコレラでなくなったのが機縁だったといわれております。
 四十そこそこの若さでなくなっていった父は、死の直前に、
 「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして親にすがれ」
 といいのこしていました。
 わが子の永遠の将来を案じながら、血をはくようなおもいでいいのこした善助の遺言は、やがて源左の心に根づき、彼を聞法にかりたてていったのでした。
 「それから親の遺言を思い出して、どっかでも親をさがさにゃならんと思って親さがしにかかってのう。 『親をさがせ』ちたって、どこにおられるむだらか、『親にすがれ』ちたって、どがなふうにすがるかわかりゃせず、おらもなんぼこそ親さんに背をむけたり、 捨ててしまったりしたこっか、わからんだいのう。
 御本山にもさいさい上らしてもらってのう、しかられたり、どまかされたりしたいのう。
 むつかしいむつかしいって、わがむつかしゅうすっだけのう」
 突如としておそいかかってくる死のおそろしさ、そして死んだら一体どうなっていくのだろうかという、まるで闇のなかをのぞくような不安が、ひたひたと心に迫ってきたのです。
 父親は「親をさがせ、親にすがれ」といったが、どうしたら真実の親にあえるのか、親にすがるとはどうすることなのか、源左は 手次てつぎの寺の願正寺をたずねて、住職の芳瑞師にいくたびもいくたびも問いただしました。
 しかし聞いても聞いても何の解答もみいだせなかったのです。
 
 真実の親さまとは、阿弥陀如来である、親さまにあうとは、その本願を信じ、念仏することであり、親にすがるというのは、この身も心も、生も死も、そっくりそのまま 親さまにおまかせすることである、と聞かせていただいて、頭のなかではわかったつもりで、やれやれそうであったかとおもっていると、あるとき、ふっと心に しのびよるえたいの知れぬ不安におびえて、また何もかもわからなくなってしまうことがしばしばありました。
 いてもたってもおれなくなって、夜中にとびおきて願正寺の門をたたき、夜を徹して芳瑞師にききただしたこともありました。
 わざわざ京都までのぼって、そのころ学徳兼備の名僧として有名だった原口針水和上に、一週間ばかりつきっきりで問いただしたこともあったようですが、しかし一向にらちが あきませんでした。

 そんな、もんもんとした不安とあせりに心がいられるような日々が十年あまりもつづきました。
 そして三十歳を過ぎたある夏の朝のことです。
 源左はいつものようにまだ夜の明けきらぬうちに、牛をつれて裏山の城谷へ朝の草刈りにいきました。
 朝日がのぼるころ、刈りとった草を幾つかにたばね、それを牛の背にのせて帰るのですが、みんなのせたら牛がつらかろうというので、一把(いちわ)だけは、自分が 背負って帰りかけました。
 ところが疲れがでたせいか、急に腹がいたんでどうにもならなくなったので、背負っていた草のたばを、牛の背に負わせました。
 自分は、すーっと楽になったのですが、その瞬間、心が開けたのです。
 「ふいっと わからしてもらったいな」
 と源左は後々まで語っております。
 おれが背負っていかねばと、きばっていた草のたばを、牛の背にまかせたとたんに、手ぶらになった自分は、うそのように楽になったのです。
 そのとき、私のこの生と死のすべてをしっかりと支えて、「お前の生死は、すべてこの親が引きうけるぞ」とよびつづけていたまう阿弥陀如来のましますことを、 全身で「ふいっと」気づかせてもらったというのです。
 自分の意識や思想をつきぬけて、私の生命の全体が、途方もなく大きな如来の御手にいだかれ、支えられているという、広々とした如来の大悲の御はからいの働く領域を 実感せしめられたのでした。
 彼は「ああ、ここだやぁと思って、世界が広いやぁになって、ように 安気あんきになりましたいな。不思議なことでござんすがやぁ」と木下みよ に語っております。
 こんなことがあってから、源左には親様と相談しながら生きる新しい人生が開けていったのでした。

 親さんに相談する
 この心に相談すりゃ、まあちょっと、云うぞいな。いつ相談してみても、いけんけえのう。
 親さんに相談すりゃ、助ける、助ける、そのまんま助ける。いつ相談しても親さんは間違いないけんのう。

 源左はいつも「源左、助くる、の一声だけのう」と口ぐせのようにいっていたそうです。
 阿弥陀仏が大悲をこめて私を 招喚しょうかんしてくださるみことばは「我よく汝(なんじ)を護(まも)らん」の一声だと善導大師もおおせられていました。
 この決定的なみことばをたまわって「ようこそ、ようこそ」と聞いて安心するほかに浄土真宗の信心はないのであります。
 この如来よりたまわっているみことばを、ただの人間の言葉と聞き流し、もっと深い道理を、もっと有難い話をさがしまわっていたのです。
 それではいつまでたっても心の空しさの充たされるときはありません。
 私どもが、この世に生まれて、どうしても聞かねばならぬ言葉とは、私の生と死を支えて「我よく汝を護らん」とのたまう阿弥陀仏の本願のみことばだけです。
 それを一言であらわしているのが「南無阿弥陀仏」という本願の名号だったのです。
 だから源左は南無阿弥陀仏を「おらがやぁなむんを、仏にしてやるとよんでくださる如来さま」のお名のりであるといただいていました。
 この真実なる御親の名のりを聞かなかったならば、人生はついに充足されることなく、空しく過ごしてしまうことになりましょう。
 
 源左の信心は「源左助くる」の一声を「はい」と聞いて、「ようこそ、ようこそ」と味わうほかになかったのです。
 「親様に『はい』と返事させてもらやぁ、事はんどるがやぁ」
 源左に育てられた同行の一人、小谷ひで は、

 「源左さんは、こうなったが御信心、ああなったが御信心というふうな沙汰は云っておられなんだ」
 と語っておりますが、たしかに源左は、わが心をせんさくせずに、ひとえに本願を聞信しつづけた人だったのです。
 自分の心に向かって、これで助かるだろうかと問えば、一向にはかばかしい返答はでてきません。
 自分の人生でありながら、この生命は、どこから来て、どこへゆくのか、全く見きわめがつきません。
 こんな愚かな自分に、いくら相談をしてもらちはあきませんから、南無阿弥陀仏という本願のみ親に相談するのです。
 
 源左が若いころ教えをうけた原口針水勧学は、南無阿弥陀仏のこころを、
 われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
 つれてゆくぞの親のよびごえ

 と歌っています。
 親様に相談するとは、お念仏することであり、お念仏することは、「必ずお浄土へつれてゆくぞ」と親さまからみことばをたまわっていることなのです。
 平生はあまり仏縁のなかったものでも、病気をしたりすると、やはり死が問題となり、後生が苦になって、源左にあいたがったそうです。
 源左の顔を見ただけで、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えはじめる人がありますと、うれしそうに、「おらより先に親様が来とられるけ」といって手を合わせて 念仏したそうです。病人の称えている念仏の声を、如来のよび声といただいているさまがありありとみえます。
 源左は八十九歳で往生をとげますが、その少し前、病の床についていたときのことです。
 同じ山根村の棚田この が、自分の父親の山名直次郎のことで相談に来ました。
 直次郎は源左の友人で、年は三つ下でしたが、床につく日がめっきり多くなっていました。
 人並みの聞法はしていましたが、自分の後生に安心するというところまではいたっていませんでした。
 娘の この が心配して、 「おじいさん、ちったぁ念仏となえなはれ」とすすめましたが、直次郎は、 「おらぁ腹にいらんだいやぁ」 といいます。
 如来さまの御本願がなっとくできないから、お念仏も出ないというのです。

 この(娘) が、近所の岡本政治郎同行に来てもらってお話をしてもらおうかというと、直次郎は、それなら源左に来てもらってくれという。
 そこで この(娘)が源左をたずねたが、彼もすでに病床についていました。
 そこで この(娘)が父親も病気になって、後生が気にかかるらしいので、念仏となえさせてもらえば気もはれるかと思ってすすめるのだが、少しもお念仏が出ない。
 どうしたのでしょうかと相談しました。
 すると源左は、
 「よしよし、称えられにゃ、称えんでもええけんのう。助かるにきめてむらっとるだけのう」
 この(娘)がそのままを直次郎に伝えると、「はあ」というばかりでした。
 源左のいったことを考えつづけてきたが、どうもわけがわからんというのです。
 「わっちゃ(お前は)念仏となえちゅうし、源左は称えんでもええ、助かるにきめてむらっとるだけ、心配せんでもええちったって。
 おらぁわからんだいやぁ。
 源左がどがあしとるか行って見て来てごせえや。
 おらぁ、いっかな喜ばれんだが、源左に、喜べるか喜べんか、源左の喜びを聞いてごせえや」
 「源左もいっかな喜ばれんちってごせ。病の方がえらいだけ、喜びが出んだがのう」
 「おらあ源左のいうことが、いっかなわけがわからんだいや。この年になって、なりが悪いだけど、世話せにゃならんけお寺に参っても、 人並みに参っとって、いっかな おらが事だと聞いとらんだけ、わからんだいや。
 源左は助かるにきめてむらっとるちったって、そがに親心ちゅうむんが、はやわかるかいや。
 源左は、えらあても、なんまんだ、なんまんだと喜んでおったが(おるのじゃないか)まあ一ぺん行って見て来てごっせや」という。
 この(娘)が 父のことばを源左に伝えると、
 「今さらくわしいこたぁ知らんでもええだ。この源左がしゃべらいでも、親さんはお前を助けにかかっておられるだけ、断りがたたん事にしてむらっとるだけのう。
 このまま死んで行きさえすりゃ親の所だけんのう。
 こっちゃ持ち前の通り、死んで行きさえすりゃええだいのう。源左もその通りだっていってごしなはれよ」

 といいました。源左のこの言葉を聞くと直次郎は、
 「源左はまたそがいったかえ」といったきり、だまってしまいましたが、翌日になって この(娘)をよびよせ、
 「おらあ、よんべ、ぼっちりぼっちり思うや。源左は念仏となえでもええちったけど、聞かしてもらってみらゃ。
 称えさしてむらわにゃ気がすまんがやぁ。・・・なんてなんて、ようこそ、ようこそ」
 とよろこんで念仏していたということです。
 昭和五年二月二十日に源左がなくなると、直次郎は、「源左にぬかれたわい」といったそうですが、彼もその翌二十一日の夕方五時頃、源左のあとを追うように 往生をとげました。
 それにしても「こっちゃ持ち前の通り、死んでゆきさえすりゃええだいのう」と、ずばり云ってのけることのできた源左は、確かに本願の世界に安住して、 生も死も如来にゆだねきっていました。』
 (『妙好人のことば』梯 實圓 法蔵館 より抜粋)
 
 長い引用文となりましたが、また、方言が少し分かり難かったと思いますが、ようこそお読み下さいました。
 源左の逸話を読みながら、色々なことが思い出される気がします。

 ある仏法の先生が言われていました。
 「せめて若存若亡にゃくぞんにゃくぼうまで、日頃、聴聞しておかなければ。」と。
  「若存若亡にゃくぞんにゃくぼう
 【左訓】「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」
「一者信心不淳 若存若亡故 (一には信心淳あつからず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり)」
 「若存若亡」とは、「猶予して決定しないこと。猶予不定(ゆうよふじょう)」をいう。
 
 という説明のように、「ある時は信心を得たような気がするし、又ある時は、信心も無くなってしまったような気がする。」
 というような定まらない状態を「若存若亡」と云うのだそうです。
 せめて、「若存若亡にゃくぞんにゃくぼう」まで、日頃に仏法の聴聞をしていれば、自分の死が教えてくれると言われました。
 自分の死が、自分の自惚れを取ってくれると。
 そんな話を思い出します。
 
 昔、私の寺の近所に一生を仏法の聴聞、仏法の勉強に尽くされたAさんというおばあさんが住んでおられました。
 近所なので、自宅を訪ねて、仏法の話を聞かせてもらったことがあります。
 あるとき、入院した時の逸話を教えて下さいました。
 Aさんが、入院した時に、看護婦さんと医師が自分のことを「今晩が山だな。」と話しているのが聞こえたというのですね。
 実際は、それから持ち直して、回復して退院されたわけですが、その時は、多分急激に血圧の数値が変化したりしたのでしょうか?
 医師が看護婦に、「今晩が山だな。」と話しているのが聞こえてしまったというのですね。
 それから、そのAさんは、
 「今まで浴びるほど仏法を聴聞してきたけれど、『今晩が山だ。』と言われると、今まで聞いてきた仏法が何の役にも立たなかった。
 情けない事だなあ」
 と思って、しばらくベットの上で、うなだれていると、『そういうお前だから、救わずにおれないんだ。』という阿弥陀様の声なき声が聞こえて来たそうです。
 仏法を浴びるほど仏法を聴聞してきたけれど、『私が助かることを聞いて来なかった』と懺悔されていました。
 「この私が救われる。」ということを聞かしていただくことが大事だと、病院での出来事を通して感じたと、私に教えて下さいました。

 この話には、続きがありまして、Aさんが言われるのに、「今度、退院したら、仏法聴聞に精進しよう。」と固く決意して、自分に言い聞かせたそうです。
 しかし、Aさんは言われました。
 「住職さん、人間というものは浅ましいものですね、病院であれほど厳しいご縁に会って、退院したら、仏法聴聞に精進しようと 決意したのですが、段々と日が経つにつれて、その決意も薄れて、再び横着な生活になってしまいました。
 人間というものは浅ましいものですねえ。」
 としみじみ言われたのを懐かしく思い出します。
 その後、Aおばあさんは、ある時、仏法聴聞の席で、御講師に質問されていたのを思い出します。
 「大道を歩む姿を眺むれば 心配もなし 安心もなし」この言葉の心は如何?
 と質問されていました。
 大道とは、「本願一実の大道」の「大道」のことなのか?
 「大道 長安を通る」という大道なのか?
 信心の道は、私の心の「安心とか不安心」ということではない、そんなことを問われたのではないかと思う次第です。
 
  そのとき御講師がどう答えられたのか?覚えていませんが、質問だけは覚えております。
 Aさんは少し体がご不自由で、一人暮らしでした。
 最後は老人施設に入所されました。
 見舞いに行かれた人から聞いたのですが、「老人施設で、中々、仏法の話の出来る人がいない。」と言われていたとか。
 一人くらいは仏法の話の出来る人が見つかったとか?
 このAさんには、「どんな遠いところへでも、仏法の聴聞に行きなさい。」と、はっぱをかけられたのをよく覚えています。称名

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*仏様には仕切りがない。 
           
*仏様の仕切りのない心を 
           
頂くところ無碍の一道が  
開けていく。 
*世のすみうきは いとう   
たよりなり。  
苦しみは嫌だし避けたい 
逃げたい。
しかし、苦しみをご縁に仏縁に   
遇う。苦しみがあるから真剣に  
仏法を聞くようになる。 
全ての苦悩はお育てなのか。 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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